歴史

平井寺・・・を中心に個人的に覚えて置きたい事や、気になる事項を並べるので、時代が飛びますが書き込見ます
  平井寺の各場所の小字名 43ヵ所   記11
 前4000年~前2000年 原始・縄文式文化時代 平井寺・栗尾
 (前漢) 征和年間(紀元前91年) 司馬遷 史記を表す。    (記1)                                              (記)は一番下に表します。
 240年~248年 魏正始年間
  卑弥呼死し、径百余歩のちょうを作る。
  国中扮乱し、卑弥呼の宗女とよを女王に立って、安定する

 403年仁徳天皇 覆中4  この頃古墳がつくられる。(この時代を中心に前後約300年、古墳文化時代) 東塩田における古墳のみ記載。
柳沢の向山・下之郷の上雲雀、紅平、下堂寺、東山、下之郷塚・鈴子の鷹山、

(日之雨塚、神外古墳、長野県古墳番号1402号)(イ-P6

478年 雄略天皇  ・豊受大神を(酒呑童子の舞台、大江山・京都府福知山市大江町より)                      伊勢に移しまつる(外宮)。日之雨塚の御祭神は豊受大神。(イ-P6
 600年 推古天皇 8年  第一回遣隋使派遣
 604年 推古天皇  12年 4月3日 聖徳太子、憲法17条をつくる。
 607年 推古天皇  15年 7月3日 小野妹子らを隋に遣わす。この年、法隆寺完成と伝える。(アー3P)  全国に寺四十六・僧尼一千三百八十五人(イ-7P)
 645年 孝徳天皇 大化元年、 塩田に条理。(イ-P7
 670年 天智天皇  9年 4月3日 法隆寺、全焼する。
 672年 弘文天皇 白鳳元年  下之郷信州夢殿の本尊はこの頃の作と考証されている。(イ-P7
 708年 和銅元年  1月11日改元 
    5月11日初めて銀銭和同開珎を用い、ついで銅銭も用いる。  この頃、法隆寺再建。
 712年 元明天皇 和銅5年  1月28日 大安麻呂、「古事記」を撰上する。
                         古事記の神話・伝説に科野が二か所登場する。  (ともに日本書記とは違いがある。)
            
 712年 元明天皇 和銅6年  諸国に命じて風土記を作らせる。
 720年 元正天皇 養老20年 5月21日 舎人親王ら、「日本書記」を選上する。
 729年 天平元年 8月5日改元   2月12日 左大臣長屋王、謀反を問われ自殺を命じられる。
 733年 天平5年  山上憶良、死去する。
 749年孝謙天皇 天平19年  小県の郡名が起こる。 9月29日東大寺大仏の鋳造を始める。
 741年 天平13年 奈良の正倉院の御物を整理中、白布の芥子袋(からしの種を入れた袋)に、              「信濃国少県郡芥子壷  天平13年10月記。
 752年 天平勝宝4年 4月9日 東大寺大仏開眼供養が行われる。

755年 天平勝宝7年2月  防人が交替し、北九州の守りに出発する時 国造小県他田舎人大島、途上情を抒して、 唐衣裾にとりつき泣く子等を
                              置きてぞ来ぬや 母なしにして (万葉集巻二十)

 他田舎人大島の名の上に国造りをつけているのは、祖先は国造りをやりその系統であることを誇りに考えているものと思われる

 防人と信濃の人々

防人として信濃のから九州筑紫(福岡県)に向かう防人の一群、

それらの人々が行旅の途中詠んだ歌の一つ 
   がこれである。 この歌とならんで万葉集には、

「ちはやぶる 神の御坂に幣祭り(ぬさまつり)

斎(いわ)う命は母父がため」  主帳埴科郡神人部子忍男

「大君の命(みこと)かしこみ青雲の 

棚引く山を越(こ)よて来ぬかも」  小長谷部笠麿

  次に、2月22日信濃国の防人部領使(ことりつかい)

道にて病を得て来られず、進(たてまつ)れる歌の12首。
 これらの和歌をこの年防人部隊の検閲に当たっていた

兵部少輔大伴家持が集録したもの。
 万葉集巻二十にはこの種の歌が84首も載っている。                             上田小県誌 第1巻P79

 

 東風

 

万葉集に載っている信濃国に関する歌。                                   

人みなの言(こと)は絶ゆとも埴科の 石井の手児(てこ)が言な絶えそね          (巻14)

信濃路は今の墾道刈株(はりみちかりばね)に  足踏ましむな履はけ我が夫(せ)   (巻14)

信濃なる筑摩の川の細石も   君し踏みてば玉と拾はむ                 (巻14)

中麻奈に浮き居る船の漕ぎてなば  逢うこと難し今日にしあらずば           

(巻14)

彼の児ろと寝ずやなりなむはた薄(すすき)  浦野の山に月(つく)片寄るも      (巻14)      上田小県誌第1巻P94            

759年 天平宝字3年  8月3日 鑑真、唐招提寺を創建する。  このころ大伴家持、「万葉集」を編む。
 785年 延暦4年7月 最澄、比叡山に草庵を構える。
 788年 延暦7年 この年 最澄、比叡山寺(延暦寺)を創建する。

795年 桓武天皇 延暦14年  小県人久米舎望足、人を射て讃岐国に流さる。(上田小県歴史年表) 

       (イ-P10

(長野県史、通史編別巻では、小県郡の久米舎人(くめのとねり)望足、

                  信濃介正六位上石川朝臣清主を射て当たらず、    この日讃岐国に流される。とある。   

 804年 延暦23年 7月 肥前田浦から遣唐使船が出発、最澄、空海が同行する。
 805年 延暦24年 8月9日、帰国した最澄、唐仏を献上、天台宗を始める。
 806年 平城天皇 大同元年、5月18日改元。   この頃、万葉集が出来る。
           8月22日 空海、帰国し、真言宗を始める。
 812年 弘仁三年 空海上人、独鈷山を護摩修行の霊場として開くと云うイ-P11)

 815年 弘仁6年 この年 最澄、東国におもむき、上野・下野両国に各塔を建て写経した

                  法華経を8000巻ずつ収める。
    信濃大山寺の僧正智、上野分の法華経200巻を書写して送り助力する。
    また最澄、信濃坂の険難から旅人を救うため、峠の美濃側に広済院、

信濃側に広拯院(阿智村園原)を建てる。【ハ-P11)

 859年 貞観元年 1月、神祇官の無位生島神足島神に従四位上を授けられ、

                    2月、また正四位下を授けられる。 各地に荘園が生まれるようになると
                この地は塩田庄となる。
(信濃史料)(イーP15)

 903年 醍醐天皇 延喜5年  古今集が出来る。 
 1180年 治承四年 9月7日 木曾義仲依田城による。(イーP13)

 1181年 養和元年 木曽義仲の臣に塩田八郎高光の名前が見えるので、此の地方から義仲に従った者が

    多かった事が想像される他に望月太郎、今井四郎兼平、樋口次郎兼光、
     盾六郎親忠、高梨、根井等とともに白鳥河原に陣をとる。(源平盛衰記)(アーP8)(イーP13)

 1184年 寿永3年1月8日  義仲 征夷大将軍となるが、源範頼・源義経の軍に攻められ、

                                  正月20日近江粟津にて敗死する。
      海野幸氏、鎌倉での義仲の子義高の誅殺を察知し、帳台に入り義高の逃亡を助ける。

 1185年 文治元年 長門国壇ノ浦の戦いで平家が破れ、滅亡する。
 1186年 文治二年 吾妻鑑に貢米未済の庄々として郡内の庄園を記す。 記13 (イ-P14
 1241年 仲恭天皇 仁治2年  向源寺上田原に創立さるという。
 1275年~1278年 建治年間 生島足島神社境内、 諏訪大明神に大きな梵鐘奉納  記12 
 1331年 元弘元年 (8月9日改元)  この頃、吉田兼好、「徒然草」を著す。

 1333年 (北朝、正慶二年)(南朝、元弘三年) 5月22日) 鎌倉落ちる。

                                                      塩田国時その子俊時敗死する。(イーP19)

 1335年 後醍醐天皇 建武2年  この頃、安楽寺八角三重塔や前山寺三重塔が建立されたと考証。

                                                      (アーP12)

 1336年 後村上天皇 延元元年  楠木正成、湊川に戦死。 
          12月12日 後醍醐天皇、吉野に移る。 (南北朝の対立が始まる。)

 1392年 明徳3年、元中9年。 10月25日 南北朝講和が成立する。
                  閏、
10月5日 南朝後亀山天皇、神器を北朝後小松天皇に譲り、

                                                      南北朝合一する。

 1457年 長禄元年 9月28日改元 4月 太田資長(道灌)武蔵江戸城を築く。

                                           (七重八重花は咲けどもやまぶきの みの一つだに無きぞ悲しき)

 1466年 後花園天皇 寛正7年  権大僧都真野法印、小県郡富士山に「大姥石仏」造立。

                                               (アーP13)(イーP21)

 1486年 文明18年   4月5日 平繁則、東内村法住寺の虚空蔵を建立する(イーP22)           
                  7月26日
 相模守護上杉定正、太田道灌を同国糟屋で殺す。
 1541年 天文10年 5月14日 高野山蓮華定院過去帳に、「位一房ー塩田城」とある。(イーP23)
 1543年 後奈良天皇 天文12年  種子島に鉄砲伝来。

 1571年 正親町天皇 元亀2年  熊野権現(古川神社)本殿修理せし棟札有。 

                               7月21日 高野山蓮華定院過去帳に「妙範ー塩田平井寺中原]とある.

                                                  (記2)・「エ」(イ-P27)

 1582年 正親天皇 天正10年6月2日 本能寺の変。

 1583年 天正11年8月24日  真田正幸、上田城起工。 房山、常田の獅子はこの時の地鎮祭に始まると

                                          伝えられる。

 1584年 天正12年  真田昌行の上田城竣工。(イ-P30
 1592年 文禄元年 「東松本の帳」という古い土地改帳ができる。(町屋山寺公家蔵)(イーP31)

 1600年 慶長5年  上田藩差出帳平井寺村記載あり
            7月22日 真田正幸、信繁(幸村)、下野犬伏の陣を引き上げて西軍に属し、

                                              信之は東軍に属する。(イーP31)
            9月1日 秀忠、西上の大軍三万六千を率いて小諸に着く。
  記4 

 1602年 7月  中仙道開通、和田宿、長久保宿成立。 
       真田の家臣池田長門の守東松本村に大円寺を開基(イ-P32)

 1622年 後水尾天皇 元和8年 鈴子の来光寺池築造伝う。
      11月20日、信之松代に移封(四万石加増十万石となり、沼田三万石は嫡男信吉に与えられる。

上田へは小諸より仙石忠正一万石加増で入部。
       この時の塩田は十七ヶ村、舞田、八木沢、別所、野倉、山田、手塚、前山、十人、本郷、中野、保野、小島、五和、下之郷、西松本平井寺、東松本。
              領内貫高改め行わる。 草履二足で三文、税は六公四民であったらしい。

 1625年 寛永2年  東松本村分かれて町屋、奈良尾に、西松本村分かれて鈴子、石神、柳沢になる。
 1631年 明正天皇  寛永8年 千曲川洪水に地形変わり尼ヶ淵の水枯れる。
 1635年 寛永12年  参勤交代の制定まる。
 1636年 寛永13年  寛永通宝鋳る。新銭四貫文で一両替、即ち一歩一貫文。
 1641年 寛永18年  上田城修理完成する。これが現上田城。(イ-P39)

 1650年 慶安3年 小県郡山田池 二つ並んでいた池を、一つにして大きな池にする。
             池の工事の総指揮をした人が「伊勢の山田」から来たので、地名を取って

                            山田池にしたらしい。

 1657年 後西天皇 明暦3年  徳川光圀の大日本史の編集始まる。(イーP40)
1675年 霊元天皇 延宝3年  塩田地区平井寺の林徳右衛門(庄屋)飢饉による民の窮状を見るに忍びず三斗八升一俵を強訴して死罪に処せられる

記5

 1680年 延宝8年  この年塩田町古安曽村春原政次寺子屋を始める。
              この頃、りんきん(りんご)を松本に買いに行っている。(問屋日記)
 1681年 天和元年  9月29日 沼田の真田家改易となる。 城主信澄54才で切腹。

 1688年 元禄元年 7月17日、千曲川の洪水。   8月15月 松尾芭蕉、「更科紀行」の旅をし、

                                                                          この日姨捨山に着く。

 1689年 元禄2年  3月24日 芭蕉の「奥の細道」の旅に、諏訪出身の河合曽良が随行する。

                                                       「奥の細道随行日記」を書く。

 1690年 元禄3年  10月25日 上田鍛冶町鍛冶職人、細工日や材料の仕入れ、鍬の規格・

                                                          値段などを申し合わせる。

 1698年 元禄11年  2月9日 紀伊國屋文左衛門、材木運送請負で巨利を得る。

 1691年 元禄4年 4月2日 大改築、古池を深さ一丈六尺に増築、 土手一丈上げる。

                                    完成獅子舞(下之郷28名) 
          8月 塩田組寺社領調べ  平井寺村 四百二十文 熊野社、三百文 大殿堂。

 1692年 元禄5年 8月 徳川光圀、楠子の碑を湊川に建てる。(ウ-P49)

 1693年 元禄六癸酉(みずのとのとり)八月さだめ  「諸仏番次並詠歌」西国三十三番 

                                                                                 「塩田平八十八仏の霊場」  
                                                                                             記9 エ

 1702年 元禄15年 5月18日、幕府の許可を得て上田城二の丸等の石垣修理する。(仙石資料)  

                            12月14日 大石義雄ら赤穂浪士四十七人、吉良義央を討つ。

 1703年 元禄十六年  2月4日 幕府、赤穂浪士を切腹させ、吉良義央を改易する。
 1705年 宝永2年  善光寺再建の木材千曲川流し許される。 この流し材の余りにて上田大輪寺本堂建つ(大輪寺文書)

 1706年 宝永3年  
  宝永差出帳
上田城主仙石正明但馬(兵庫県)出石に移風。松平忠周が出石より上田に移封。
 

上田領村々から差出帳を出させる。  (イ-P52)

1707年 宝永4年
  鹿教湯  文殊堂の寄進    文珠菩薩を御輿に安置し出開帳
  記8 
 1709年 宝永6年  上田の向源寺上田原より現地に移るという。

1713年 正徳3年 3月 平井寺の熊野宮建てられる。(古川神社) (イ-P51)

1736年 桜町天皇 元文元年  川に流せし正月のしめ飾りを焼く事に決まる。どんど焼きという。

1777年 安永6年  この頃と思われる、地蔵念仏禁止令書。(小県誌写真集)

1778年9月 後桃園天皇 安永7年  平井寺峠平井寺側に馬頭観音が建立。

甲田三男氏の石造文化財、本の表紙より 

記6

1782年 天明2年  生島足島神社の大鐘鋳直しする。(鐘銘)(イーP60)記12

 1805年 享和三年癸亥五月十一日  表に阿波・土佐・伊予。讃岐・四国遍路八十八番とあり、 

                          裏に「四国遍路八十八仏は塩田二十二ヵ村に御座候。諸仏番次並詠歌」写之
 
                        記10

 1824年 文政7年 この年塩田地区五加に伊勢講はじまる。
 1833年 天保4年  3月18日 塩田組中生島足島神社に豊年祈禱を行う。
                   この年天候不順、大凶作。 天保9年まで6年間にわたる。
 1834年 天保5年  国友籐兵衛はじめて望遠鏡を作る。(上田博物館に現存、当時70両)(イーP68)
 1835年 天保6年  一村につき百坪3千本の甘草を植えさせる。(イーP68)
 1836年 天保7年  大凶作で諸国民さわぐ。わら餅をくい、全国の酒造三分の減、上田藩は全く禁ずる。(小県郡年表250P)
          上田藩山田池土手に甘草栽培を行う。
 1837年 天保8年 塩田組の農家年中行事帳を藩へ差し出す(上田小県誌)
 1841年 天保5年  来光寺池の一の樋(とい)前腹付の修繕。(役夫14,597人)

 1842年 天保13年  貞享暦(1684年)をやめて天保暦を用いる。

  1846年 弘化3年  塩田組22ヶ村組中家数人別調(北沢文書)

村名  家数  男数 女数  計    村名  家数   男数  女数 計 
 八木沢 60   184 186  370     別所  111 279   302  581
山田  53  149   145 294    東前山  73   178 178   356
西前山  不明       302    十人 21   71  60 131 
 新町 42  97  98   195   小嶋  43  192   186 378 
 鈴子 47  156  136   292    平井寺 56  115   113  228
 石神  91 223  223   446   手塚  114   331  312 643 
 中野 46   162 145   307   野倉   97 170   167 337 
 奈良尾 84  363  356   717   町屋  57   193  230 423 
 五加  120 372  364   736   柳沢  54   190 174   364
下之郷  不明      723     本郷  83  268 238  506 
 保野 59   259 241   460   舞田  46   130 118   253
1847年 弘化4年  中組の西光寺本堂が再建される。(イーP71)
 1848年 嘉永元年  藩主上田町に工場を作り、桐生より職人を入れ、絹織物業盛んになる。
              赤松小三郎、13才で江戸遊学にのぼる。
              佐久間象山藩命により、砲数門造る。(イーP71)
 1858年 安政5年  6月2日 上田産の生糸、群馬県三原の中井屋重兵衛店を通じて横浜から初めて輸出をする。
            この年より四ヵ年渋沢栄一藍玉を小県地方に販売に来る。(八木沢資料)
 1861年 文久元年 3月10日 和田宿の大火107戸焼失。 和宮下向のため直ちに復元する。
             10月    和宮中山道下向。この地方多人数人足にあてられ上田藩も警備につく。(アーP62)
 1867年 慶応3年  9月3日 赤松小三郎、京都で暗殺される。
            9月17日 大屋橋、渡りぞめ式があり、式直後つい落の惨事起きる。 長さ20間、幅2間。(イーP76)
           10月14日 大政奉還が行われる。
           12月9日 王政復古の大号令が発せられる
1868年 明治天皇 明治元年  明治維新 
                    1月3日 鳥羽伏見の戦い。
                    7月 下之郷神宮寺壇中を長福寺に預ける
(イーP77)
 1869年 明治二年 六月 廃仏毀釈令がでる。(イ-P78) 下之郷竜泉寺(山伏)廃寺となる。
 1870年 明治三年 十二月 下之郷神宮寺廃寺となる。(イ-P78
 1870年 明治3年 12月24日平井寺熊野神社を古川神社と改称する。(同日、庶民の佩刀を禁ずる)(下之郷神宮寺廃寺)(イーP78)
 菅平に馬鈴薯(きやびたいも)栽培盛んになりこれから澱粉をとる。
  この年石鹸、ランプ、コーモリ、洋犬、洋本とじ、くつ、人力車、郵便が巾をきかす。
  米国からはじめてりんごが入る。信州へは明治十二年という。
1871年 明治4年  各村々にも戸籍調査が行われる。 初めての戸籍簿ができる
 1872年 明治5年  2月9日 太陽暦を用いる。明治5年12月3日をもって、6年1月1日となし、1日を24時間と定める。(イーP80)
1873年 明治6年  1月4日 五節句を廃して祝日を定める。 
         12月 平井寺・鈴子・石神・柳沢・奈良尾・町屋の6か村が1小学区となり「習成学校」として設立される。下之郷は中塩田の「盈進学校」
            に通う。
 1874年 明治7年11月 下之郷は盈進学校と分かれて「戴明学校」を設立する。
 1875年 明治8年  2月13日 国民に必ず苗字を称させる。
            七月 鈴子、石神、柳沢、平井寺を合わせて古安曽という。(イーP84)

1878年 明治11年12月 富士山村は「習成学校」より分離して「富士山学校」を設立。

1879年 明治12年  戸口調査が行われる。

 富士山  331戸  1、372人    古安曽  367戸  1、547人
 下之郷  195戸  782人    五加  179戸  736人
 本郷  ?  ?    小島  116戸  519人
 保野  139戸  605人    舞田  84戸  355人
 八木沢  111戸  414人    中野  100戸  410人
 十人  39戸  175人    東前山・西前山  189戸  796人
 新町・手塚  240戸  1、006人    山田  73戸  319人
 野倉  97戸  378人    別所  207戸  779人
             

 

1881年 明治14年6月  平井寺の古川神社本殿屋根ふき替え、鳥居再建される。
 1882年 明治15年  平井寺を南北に縦貫する道路が作られる。(平井寺の奥の薪や草の入会権をめぐって、鈴子と平井寺が明治12年にもつれ、
        折衝の末、明治15年平井寺地籍内この道路を鈴子村が負担して造る事で落着した道路。
       以後、大正4年、昭和33年に幅を広げ、舗装をしました。

神外古墳はその時、道路を作るために半壊されました。(半壊古墳で石合家の氏神様です

1882年 明治15年 「戴明学校」が「下之郷学校」と改称。

1984年 明治17年5月 習成、下之郷両校が合併して「塩田学校」ができる。(ウ-P91)
           12月 塩田学校を大六学校と改称して本校となり富士山学校は支校となる。

 これは古安曽・下之郷・富士山の3が村が1学区になった為。

 1890年 明治23年  平井寺青年会が発足される。

明治23年頃の古川神社の絵地図

1900年 明治三十三年 三月  柳沢銀行創立される。資本金六万円  (イ-P107)
1901年 明治三十四年 一月 中塩田銀行が創立される。資本金四万円 
              ・ 七月 古安曽銀行が創立される、資本金十万円・ 
(イ-P108)
1902年 明治三十五年 九月 中組に富士山第一信用組合
                   奈良尾に富士山信用組合が設立される。
 -P109)
1912年 明治45年 六月 古安曽銀行丸子支店ができる。資本金十万円 (ラ-P101

1912年 大正天皇 大正元年  平井寺就学奨励部が発足される。

この頃、平井寺 森下に温泉が開かれる。(電気で沸かすお風呂)

湯元 有隣館 藤屋、大正期に創業、昭和初期に廃業。
写真左側の建物は移築され、平成半ば頃までありました。

1913年 大正2年3月  平井寺第1回就学奨励部、学用品授与式が行われる 小学校に入学する児童に、カバン・上履き・進級生には学用品・卒業生には記念品を贈呈。

1918年 大正7年 8月  不況のため上田小学校女子部の一割150名、男子部30名の児童常欠する。

                                  上田に就学奨励会発足。教科書及び文具料260銭、食費250回分
      12円50銭、雨具料70銭、履物料120銭、被服料350銭、その他。 9月上田明照会設立。

 1919年 大正8年  平井寺部落内の道路を大きくなおす。
         農家に足踏み脱穀機が使われ始める。
        製糸業者らが鉄道院の五島敬太(東急の創立者、青木村出身)の協力を得て、

                       上田温泉電軌(株)を設立。記16

 1920年 大正9年10月1日  第1回国勢調査が行われる。(ウ-P131)
                   富士山・戸数408-人口2,016人
                   東塩田 戸数644-人口3,023人
                   中塩田 戸数970-人口4,758人
                   西塩田 戸数733-人口3,462人
                   別所  戸数345-人口1,504人
                 計     3,110戸、人口14,762人

西塩田村村史編さん委員会が出来、主任に小山貞夫委託される。

平井寺に電灯がつけられる。

1921年 大正10年 上田温泉電軌(株青木線(三好町~青木) ・川西線(上田原~別所温泉) 

                                                         (ムーP137)記16

 1922年 大正11年 10月10日 小県郡史刊行される。(小山貞夫編)(ウ-P134)
 1923年大正12年5月  平井寺の古川神社神楽殿改築される。(ウ-P135)

 1924年 大正13年6月 古安曽銀行丸子支店閉鎖 (ラ-P119)
           千曲川に架橋して青木線を延長(三好町~上田)し、

                                 上田駅と結んだ(ムーP137)記16

 1926年 大正15年 依田窪線(下之郷~西丸子)開通(ムーP137) 記16
 1928年昭和3年 北東線(上田^真田・傍陽)開通。(ムーP137)記16
 1933年 昭和8年12月1日 東塩田小学校開校50周年祝賀式行われる 

  1948年 昭和23年 ロンドンオリンピック開催される。 パラリンピック平行開催。

             第二次世界大戦後負傷した兵士のリハリビの為1985年からパラリンピックと呼ばれる。
              (パラは平行、もう一つの物)パラレル

  1953年 昭和28年  石神 竜野藤之助米造り日本一、技術多収穫県代表となる。一反部600キロ。

1955年 昭和30年 10月1日 国勢調査が行われる

 中塩田村  1119戸  5,702人
 東塩田村  1,118戸  5,833人
 西塩田村  815戸  4,237人
 別所村  494戸  2,219人 
 計  3,546  17,991人

1956年 昭和31年5月1日 東塩田、中塩田、西塩田、別所の4か村が合併し塩田町が発足する。 

 塩田町立東塩田小学校と校名が改まる。

 1958年 昭和33年  9月6日 東塩田小学校で校歌生まれる。 作詞峰村国一、作曲神戸時司・
              5月5日 平井寺青年会70周年記念祝賀会開催。                      
記3
 1959年 昭和34年11月10日 東塩田小学校創立70周年記念式典が挙行される。

 1960年 昭和35年2月 平井寺長生会・石神長生クラブ・上小島長命会、各老人クラブが結成される。

   (ウ-P1)
     3月18日 下之郷の長福寺及びかしわ保育園、類焼にあい全焼する。

                                     長福寺寺宝 二十五面菩薩面も消失。(ウ-P2) 
               9月30日 東塩田小学校にプールができる。工事費165万円 (ウ-P4)

1961年 昭和36年 6月 平井寺で副食共同炊事はじまる。(ウ-P9)(エ)記14  
              8月5日 平井寺、奈良尾線バス開通、(ウ-P10)
        依田窪線 台風によりトンネルに被害。廃線になる。(ムーP137)記16

 1962年 昭和37年 3月30日 平井寺の農道栗尾大久保線拡巾改修工事が竣工する。    延長1200m 巾2.5m。(ウ-P13)
             5月1日 平井寺の古川神社直会殿、屋根替工事行う。併せて幟竿

                                                     ( 五反幟及び三反幟)を鉄骨製で二対新設。
             6月30日 平井寺池の災害復旧工事(二ヶ年)が竣工する。 工事費223万円

 1963年 昭和38年3月30日 平井寺農道小森川線工事完了する。(ウ-P18)

 1966年 昭和41年 1月27日 平井寺池災害復旧工事が完成する  工事費411万円。(ウ-P33)


             11月26日 五十嵐幹雄教諭により五加内堀遺蹟発掘調査が行われる。
ユ、記11
          12月5日 平井寺温泉ボーリング始まる。 (エ)記15

1967年 昭和42年 3月7日  県企業局平井寺において温泉ボーリング中間報告 (ウ-P38)記15
            8月8日 長野県の象徴に、シラカバ、リンドウ、ライチョウ、カモシカが

 決められる。(ウ-P41)        

 1969年 昭和44年 12月林道穴場線(平井寺)工事完了する。延長546m。(ウ-P56)
 1970年 昭和45年  新上田橋完成
 1975年 昭和50年 古舟橋完成
 1976年 昭和51年9月6日 東塩田小学校 新校舎建築起工式。

 1980年 昭和55年5月17日東塩田小学校 新校舎起工式・祝賀式が挙行される。  旧門柱の処分

     (2本は現グランドに・2本は資料館北側。

1985年 昭和60年 小牧橋完成

1986年 昭和61年 平井寺夫婦道祖神
     平井寺トンネルの取付道路工事に伴い、尾根川改修現場から奇跡的に発掘された道祖神。
記18

1987年 昭和62年11月30日 ふるさと塩田「村々の歴史」第一集発刊 記20

 1988年 昭和63年 8月25日 平井寺トンネル有料道路(古安曽平井寺から東内まで)

         12月25日 ふるさと塩田 「村々の歴史」第二集発刊 記20

                       平井寺 記21

 1989年 平成元年10月29日 東塩田小学校創立100周年記念式典が挙行される。
 1999年 平成11年常田新橋完成
 2000年 平成12年 上田大橋完成

2017年7月  馬頭観音設置工事完了。

2018年平成30年4月8日 塩田平文化財保護協会様のご配慮で設置いただきました, 馬頭観音説明看板の

              除幕式が行われました。  記7
       8月25日 平井寺トンネル無料開放

2019年 令和元年 10月13日 台風19号により別所線千曲川架橋崩落。

              復旧まで城下ー別所間になる。上田駅ー城下駅間はバス運行

2020年令和2年 国勢調査5月、100年目
2021年令和3年 3月28日  別所線 全線復旧、運転を再開する。

12月19日 古川神社 鳥居竣工式。石の鳥居に変わる。

以前の鳥居       新しい鳥居          常夜灯は文久元年立石階段、太郎山の緑石

参考資料、
・ア、上田小県歴史年表(上小郷土研究会) ・イ、塩田歴史年表1(塩田町教育委員会)          ウ、塩田歴史年表2(続編) ・エ、しおだ町報縮刷版(塩田町報復刻刊行会) ・オ、塩田平の文化と歴史

・カ、小県郡史(小山貞夫) ・キ、小縣郡史1巻、2巻(小縣時報局)

・ク、上田小県誌1巻・2巻・3巻・4巻・5巻(上田・小県誌刊行会 ・ケ、長野県史(近世史料編全県     

・コ、正保四年信濃国絵図)・サ、長野県史、通史編全10巻(長野県史刊行会) 

・シ、長野県史蹟名勝天然記念物調査報告全7巻 ・ス、長野県史全23巻(長野全県 

・セ、長野県正史3巻と別巻  ・ソ 長野県史 民族編、第1巻(?東信地方ことばと伝承  

・タ 明治100年の歴史(明治編・大正、昭和編 )・チ 信濃の歴史と文化の研究(黒坂周平先生)      ・ツ 長野県神社庁三十年史 ・テ 上田御領分惣貫高寄帳(慶長五年写) ・ト 東塩田村宝永差出帳    

・ナ 塩田の宝永差出帳         ・ニ 信濃の民家 太田博太郎著  ・ヌ 一志茂樹博士喜寿記念論集 
・ネ 上田藩農民騒動史 横山十四男   ・ノ 改訂版上田藩農民騒 動史 横山十四男
・ハ 上田市誌(歴史編・4・5・6・7・8・9)(民族編   
・26)(人物編・28) 

(別巻・30(図で見る町や村のうつりかわり)  ・31(上田市の年表)     

・ヒ 『角川日本地名大辞典20長野県』 ・フ 日本歴史地名大系20長野県の地名  

・ へ 歴史に学ぶ 津本 陽 講談社文庫・ホ 日本史年表・地図 児玉幸多(編)吉川弘文館  
・マ 信濃の歴史と文化の研究  

・    (一)・(二) 黒坂周平先生喜寿記念論文集「歴の文字は中の字を取ったカンの文字」   

・ミ ふるさとの地名逍遥(桜井松夫編) ・ム 地図でたどる長野県100年 (長野県地理学会)

・メ 明治の塩田郷村誌(塩田郷史研究会)  ・モ 史記・列子の思想(講談社) 

・ヤ 塩田平(小鹿野 健) ・ユ うえだ・小県地方の「地字略考」 (五十嵐幹雄、喜寿記念出版) 

・ヨ 上田地域の石造文化財 (甲田三男) ・ラ 丸子町歴史年表(丸子史料研究会)
 リ 石神の150年史
・ル 上本郷のあゆみ ・ レ 歴史研究 海野(海野史研究会) 

 ロ 信濃史料、巻二~巻二十八、補遺編上下(長野県立歴史館)

 ワ ふるさと塩田「村々の歴史」第一集・第二集

記      残しておきたい文字を載せています。

 

 記1 

 太初元年(紀元前108年より史記の執筆を開始・天漢3年友人の李陵を弁護し武帝に激怒され宮刑に処されるが、

              征和年間(紀元前92~89年に完成
「本記12編」、「表10編」、「書8編」、「世家30編」、「列伝70編」、列伝の末尾は司馬遷の自序である「太史公自序が附され、

      司馬氏一族の歴史や、
「史記」の執筆のに至った経緯・背景を述べている。   
「和田武志氏解説」司馬遷は父の遺志を受け継ぐ形で太史令となった。生まれながらに歴史を記途する任務を負わされた。
 二十歳の時から東南と中原への壮游をはじめた。
 まず江淮(こうわい)地方、今の江蘇(こうそ)と安徽
(あんき)に行き、漢の劉邦(りゅうほう)の功臣韓信(かんしん)の貧窮時代の話を

    取材した。
 南下して、江西の盧山(ろざん)に上がり、「兎(う)(伝説上の夏(か)王朝の始祖)の九江をひらいたさまを観」
 、浙江(せつこう)・紹興(しょうこう)南の会稽山(かいけいざん)に登った。
 ここは禹の葬られた地で、その墓は「禹穴(うけつ)」と呼ばれる。 
 禹の後衛(こうえい)とされる越王勾践(こうせん)も、ここ会稽山で臥薪嘗胆(がしんしょうたん)して復讐をとげたことが
『史記』に描かれているが、実地に取材したものである。
 禹穴をたずねた以上、舜(しゅん)古代伝説上の皇帝。禹に譲位した)の葬られた所をたずねないわけにはいかない。
 そこでかれは舜の終焉の地であると伝えられている湖南の
 九疑(きゅうぎ)山に登り、さらに湘(しょう)水を下って長沙(ちょうさ)へ行き。汨羅(べきら)江に臨んで

 屈原(くつげん、楚の政治家・詩人)
  の死を悼んだ。
 楚文化の余恵を存分に吸い込んだかれは、さらに北上して姑蘇(こそ)「蘇州」と五胡で呉王闔閭(こうりょ)と

 夫差(ふさ)の霊をとぶらかってから、
 斉(せい)と魯(ろ)へいったと思われる。
 両地での滞在期間おそらくいちばん長かったのではないか。 魯では孔子の教化の遺風を実地にたしかめ、孔子の人格に心から傾倒した。
 そのあと、山東南部と江蘇北部に足をのばし、孟嘗(もうしょう君封是ぜられた薛(せつ)の地をおとずれた。のちに彼はこう述べている。
「わたしは薛の地を訪れたことがあるが、鄒(すう)や魯とちがって、村里に乱暴無類な子弟が多かった。そのわけを問うたところ、
『むかし孟嘗君が天下の任侠の士や無類の徒をまねいて薛に入れたのが六万余家もあったからだろう』という返事だった。 
 世に孟嘗君は食客を好み、かれらを歓迎したと伝えられるがその評判は大げさではないのだ」(孟嘗君列伝)
 彭城(ほうじょう)(今の徐州)では、劉邦・蕭何(しょうか)・曹参(そうしん)・周勃(しゅうぼつ)・樊噌(はんかい)といった

 漢初の英雄の生家や
 古戦場をたずね、 古老の話に耳を傾けた。
 そのあとさらに、河南の開封(かいほう)へ行った。開封は戦国魏(ぎ)の都城大梁(たいりょう)である。
「もと大梁の廃墟をおとずれたとき、土地の人がこう語った。 『秦が梁を破ったとき、河や溝の水を都の大梁に注ぎ込み、

 三ヵ月で都城を陥落さ せた。
 王は降伏を申し出たが、とうとう
 滅んでしまった。』(魏世家)
 魏の減亡は、信陵(しんりょう)君が退けられて酒びたりとなって死んだのと関係がある。

 司馬遷は信陵君を崇拝していたから、大梁では信陵君の故事をたずねてまわった。それらの故事のうちもっとも精彩を放つのは、
 信陵君みずから轡(くつわ)をとって夷問(いもん)の
 番人侯瀛(こうえい)をむかえる場面である。
「わたしは大梁の跡を通ったさい、いわゆる夷問をたずねてみた。夷問とは都城の東門のことだ。 天下の諸侯のなかには士を好む者もいたが、
 しかし信陵君は巖穴(がんけつ)の隠者
 に接し、微賤の者との交際を恥じなかったのは、この一事をみてもうなずける。その名が諸侯に冠たるのも大げさではないのだ。 
 されば漢の高祖は大梁をとおるごとに、人民に命じて
 信陵君を祀らせ、その祭事を絶えさせなかったのである」(信陵君列伝)
 開封の東、徐州にいたる一帯は戦国末期には楚(そ)の領地であった。 
 当時、楚はすでに陳(ちん)(今の河南東部の淮陽(わいよう)に遷都し、のちさらに寿春(じゅしゅん)(今の
 安徽北部の寿県)に遷ったから、戦国四公子のもう一人の立役者春申(しゅんしん)君の故城や宮室は淮陽にあったのだろう。
 開封に行く途中、司馬遷がこの地に立ち寄ったことは、「わたしは楚に行って春申君の故城・宮室を見たが、まことに壮大なものだった」
 と言っているからも確かであろう
 大梁に行ったあと、さらに西に向い、簣(き)山に登った・ 「わたしは簣山に登ったが、

 山上には許由(きょゆう)の家(つか)があるとのことだった」。
 首都、長安に戻った。 のち朝廷の使命を帯びて二度目の外遊に出た。戻ったのは36才頃
 周公が没して五百年後に、孔子が現れ、孔子の死後、五百年が過ぎた五百年前に孔子は『春秋』(魯国の年代記)を作ったが、それ以後
 今日まで記録は途切れ歴史を書き継ぐものはいなかった。この間に多くの忠臣、義士が現れたが、私は太史でありながら彼らの事績を記録
 できなかった。  父、司馬談(たん)の願いだった、五百年間の歴史の空白を埋め、『春秋』をつなぐために、父の死(司馬遷三十六歳)
 、三年後太史令になった。
(こう言う物事が好きなのでもう少し。)
 人生は十中八九意のままにはならぬ。  過去にも多くの人が私と同じ不幸な目にあった。  けれども彼らは不幸を乗り越えて
 不朽の名誉を完成させたではないか。
 かつて文王は羑理(ゆうり)囚われていた時、『周易(しゅうえき)』を推断して拡めたではないか。  孔子は陳蔡の厄にあって『春秋』
 を作ったではないか。
 屈原は江南へ追放されて『離騒(りそう)』を著わし、左丘明(さきゅうめい)は失明して後に『国語(こくご)』を編さんした。
 孫びんは両足を切断されて兵法を編み出し、 呂不意(りょふい)は蜀の地に流されて『呂氏春秋』を作った。
 韓非子は、泰国に囚われて『説難』、『孤憤(こふん)』の名篇を書いたではないか。
 こうした不屈の業績はすべて心に怒りが積もってはけ口がないため、過去の出来事を書き記した後の人に警戒を鳴らそうとしたのだ。
 こうして司馬遷は宮刑の恥に絶えて『史記』を書き続けた。尭・舜など五帝から始めて漢の武帝が白麟(はくりん)を獲た年まで二千年の歴史を

 記述した。
史記の思想より

 
記2  高野山 蓮華定院と塩田   塩田関係の「蓮華定院に残されている過古帳」一部分     「しおだ町報 昭和40年11月5日 第113号
天文年間
塩田関係十五・ 真田(実田)関係十四・ 浦野関係五・ 丸子関係三
弘治、永禄、元亀年間
真田(実田)関係二十二・ 塩田関係二・ 祢津関係八 ・浦野関係六
 戒名  年  月  日  俗名号等
 位一房  天文十年(1542年)    五月十四日  塩田城
 帰空秀義 天文十一年(1543年)   三月十七日  塩田、 東光寺 
道 泉  天文十二年(1544年)   三月十日  塩田、 尾張 守 
妙 西  天文十三年(1545年)   六月十六日  塩田、 飯嶋の母 
妙 善  天文十四年(1546年)   三月三日  塩田、 肥前守母儀 
善 高  天文十四年(1546年)   十一月 塩田弥 宣 
 妙 寿 天文十九年(1551年)   体月四日  塩田、 竹内丹波守 
良 儀  天文二十年(1552年)   三月一日  塩田庄、 手塚新左衛門 
 貞操妙忠 天文十九年(1551年)   十月七日 塩田、 出羽殿尼公 
 妙 貞  天文二十二年(1554年)  二月二日  塩田前山、 福沢殿ノ局
 塩田城  天文二十二年(1554年)  八月五日
 塩田城 落城
 権大僧都泉光  永禄七年(1564年)     五月二十六日  塩田ノ庄、 前山寺西光坊
 道 林  永禄六年(1563年)  七月二十六日  塩田、  世尊院
 道  繁  永禄十年(1567年)  三月吉日 手塚郷、 中沢源右衛門
  妙 範  元亀二年(1571年) 七月二十一日  塩田、 平井寺中原
 真興大徳  元亀二年(1571年) 六月二十一日  塩田、  似 心  (塩田肥前守
 道 幸  天正八年(1580年) 三月二十一日  塩田、手塚又右衛門為父
 祐仁大徳  天正十八年(1560年) 三月二十一日  塩田、 中禅 住満月坊
 道 清  慶長二年(1597年) 正月二十一日  塩田ノ住、 西松本甚右衛門
 道 海   慶長六年(1601年) 二月十八日日
 塩田荘、 小嶋九右衛門
 道 正  慶長九年(1604年) 三月二十一日  塩田荘、 前山郷 宮沢喜兵衛
 道 慶  慶長十四年(1609年) 十月二十一日   塩田柳沢、関田平右衛門
 月桂妙窓  慶長十六年(1611年) 八月二十一日  塩田松本、池田長門守内儀
 桂山妙覚  慶長十七年(1612年) 三月二十一日  塩田下之郷、工藤善作
 玉雲妙清  慶長十七(1612年) 九月五日  スズコ、  助兵衛内方
 毛利妙範  慶長十九年(1614年) 八月六日  スズコ、 飯島宗心妹
 浄  琳  元和七年(1621年) 正月六日  塩田別所、 桜井市左衛門
 妙 海  元和九年(1623年) 四月九日  下之郷、 神宮寺内盛卯
 月空妙霜  寛永二年(1625年) 十一月十一日  スズコ村、 関次左衛門
 妙  璃(注)  寛永十一年(1637年) 正月  ゴカ村、 高田九右衛門為母
 3

   {平井寺青年会創立70周年」
 昭和33年5月5日、平井寺青年会は、本年創立70周年を迎え、午後1時より塩田町公民館長はじめ来賓多数のもとに盛大に挙行した。
 当青年会は明治二十三年、時まさに日本は文明開化の息吹も高く急速な進歩発展の途上にあり、

 この時に当たり青年こそ郷土発展原動力であると自覚し、
 時代の進歩に遅るる事なく相寄つて修養に励み、郷土の発展を計るべく時の青年有志によって結成され集成会と称して発足したが

 後に
 平井寺青年俱楽部と改称し明治二十七年に至り日清戦役が起り義勇奉公の儀を入れ、

 平井寺青年義会改称して十五才より三十才迄の青年を網羅し、
 夜学会の開催、青年文庫の設置等を行って修養に専念した。
 爾来七十年時代変遷にともないその姿は幾様にも変化を重ねて来たが、常に時代の先覚として活発に運動を展開し、大正二年改年記念として
 現共有山林組合より
山林を借り受け植樹を行い、その収益金により次代を背負う学童に対しより有能な社会人として成長する様就学奨励を計る
 就学奨励部事業をはじめとして
郷土発展に幾多の偉大な功績を残しているが、特に過去七十年の間一貫として学習精神を尊重して来た事は
 誠に意義深いものがある。
 現在会員一同は、この大先輩諸氏の尊い意志を信条として目的達成につとめている。

    「しおだ町報」昭和33年6月5日 第37号(集合写真有)

記4

      『平井寺について 』             紙上講座      東川多寿男氏
〇 平井寺村は、旧東塩田地籍から内村に越す、平井寺峠の入口にある集落で、富士山東塩田が西松本・東松本に分かれた時代も
 平井寺村は小さい集落であるのに独立した一村をなしていた。
 其の原因は現在のところ明らかではないが、何か歴史的支配関係か、あるいは寺院関係か、また特殊な事情があったのか、まったく不明である。

〇 平井寺は塩田からの内村街道と、 塩田城から柳沢の羽二重の湯、 石神の吉沢城を経て砂原峠に向かう古い街道の交差点にあたり
 
塩田平として重要な場所であった。
 集落の南方にある古川神社の附近に駒形城(小屋城)があって内村街道をおさえている。 

  附近には、小屋岳、小谷久保、若宮、小産田、垣結というような
 山城関係の地名が残されており、また豪族関係の牧場もあったとみえて、平井寺峠のふもとには、飼馬口、馬除、栗尾、中原等の地名があり
 駒形神社がありまつられている。
〇 なお平井寺という地名のおこりを考えてみると、寺院関係地名であるかも知れない。
 天台宗や真言宗が盛んであった平安時代に独鈷山を中心にした山岳仏教が盛んであった。内村にも塩田にもその遺蹟が残されている。
 そのころこの平井寺にも
殿城山平井寺といわれるお寺あったといわれている。
 奥の院が独鈷山の頂上に近い入峠という所にあつて現在でも寺やしきと呼ばれ、井戸(清水)が残されている。
 その奥の院にあった鐘と「殿城山」という額が保存されていたが、鐘は戦時中供出してしまったので、額だけが残されている。(窪田家)

しおだ町報   昭和37年10月5日  第77号

記5

 〇 平井寺から江戸時代になって林徳左衛門という儀民がでている。 約二百九十年前、(この記事は昭和37年です)

     延宝三年という年は大飢饉の年で、
  上田藩の収納米が六六、八一七表のところ二二、000表も減じた「この飢饉のため農民はのびるをとり塩に和し、

  木の芽をつみ草の根を堀或いは焼酎のかすをあら慷にてこし、
 団子に練りて一時をしのがんとせしに、その毒にあたりて膨張し死せるもの道路に充満す」という有様であった。上田藩はこの飢饉に際しても
 年貢をなお加増して、米にして四斗五升俵を収納せんとしたため、徳左衛門は百姓の苦しみを救わんとして、三斗八升を一俵にせんと、

  藩強訴した。
 その罪により延宝三年十二月二十六日死刑に処せられたが、その翌年からは、徳左衛門強訴した、三斗八升を一俵として、
 藩に納めるようになった。
 平井寺村では徳左衛門の徳をしのび、平井寺山に自然石でその碑を建立した。そして「林徳扇大神」の幟をたてて、その霊をまつった。

   しおだ町報   昭和37年10月5日  第77号

 記6

 旧平井寺峠口の丸彫立つ像「亍時(ときに)安永七 戊戌竜集(ぼじゅつりょうしゅう)(1778)九月日造立  (安山岩)
 平井寺の集落を通る一本道は、古川(ふるかわ)神社を過ぎると新道を横切りトンネルの少し手前で峠道に続いています。

  さらに尾根川を渡りしばらく行くと
  左手台上の木立の中に馬頭観世音の石造が見えてきます。
 像の高さは約88㎝、胴回りは44㎝です。  四角の安山岩基礎石3段の上に八角の蓮華座と像の受座があり、

   背面に造立年月を刻した馬頭観音立像が安置されています。
  印相(菩薩が成し遂げようと定めた誓いを手と指の動きで示す形)は菩薩像に多い合掌印(がっしょういん)です。
 かつては上屋があったと伝えられていますが、今はうす暗い林の静寂の中で風雨にさらされて立っています。

 いつの日か地震で倒れたのでしょう。 
 首元で頭部が折れ 顔面や手の指にわずかに傷を負っているのが痛々しく感じられます。
 ふっくらとした穏やかな顔で目を閉じ合掌しています。 幼子や年老いた親の手を引いて通る家族、

  重い荷物を背負ってあえぎながらおうらいする旅人、
 息をはずませながら坂道を行き交う人馬などの無事を祈り続けた仏の姿です。立派な彫刻である上に仏像の損傷も少なく、
 上田地域にとって貴重な文化財です。受け継ぎ伝える為の保護の策を講じたいものです。

   上田地域の石造り文化財ーその石質と石材地ー甲田三男氏

記7  2017年7月移設工事)

 (2018年4月 平井寺住民の寄付により、すこし東側に移し、説明看板を設置し除幕式を行いました。)

工事の様子

 記8

       文珠道の寄進       各村々の出開帳                  紙上講座
 内村に「大智山勧化帳」という古い帳面が残されている。
  この帳面は今鹿教湯温泉文珠堂を建立したときのもので、それをみると、
 宝永4年(約二百六十年前「昭和39年」文珠菩薩を御輿に安置し出開帳と称して、それをかついで小県郡と佐久郡の各村々をまわって

  建立資金の浄財をうけている
 御輿はまず青木村の沓掛・奈良本から、はじまつて順に各部落を廻り、小泉福田を経て塩田町にはいっている。 今塩田平の分をみると
 つぎの人たちが寄進している。
 「保野村」  原理兵衛・田中市兵衛・石井惣左衛門・柳沢文蔵・原小左衛門・和田次右衛門  
 「中野村」 清水岡右衛門・工藤源左衛門・小出角兵衛
 「舞田村」 高橋助左衛門・中村弥左衛門・宮沢半左衛門・上原曽助    「八木沢村」 前島権左衛門・森次郎右衛門・工藤茂左衛門
  ・中田弥右衛門・前島仁右衛門

 「山田村」 川忠助・竹内市兵衛・斎藤善ノ丞   
 「別所村」 桜井市左衛門・南条吉左衛門・温井十右衛門・庄村八三郎・斎藤六兵衛・倉沢七大夫・山極二郎右衛

 「野倉村」 曽根平ノ丞・滝沢惣左衛門・坂口藤右衛門・      

   「手塚村」 山極源右衛門・曲尾市兵衛・池田勘助・中沢次助・ 箱田藤八・塩沢藤七
 「新町村」 保科勧右衛門・関谷半右衛門   
 「西前山村」 児玉文七・金城善兵衛・保科次郎右衛門・宮沢平左衛門・児玉半ノ丞・山浦源左衛門・
宮沢文右衛門
 「東前山村」 吉田七郎右衛門・黒坂甚左衛門・鷲原伝右衛門・黒坂吉左衛門 

    「十人村」 塩沢平介・斎藤幸七同文右衛門・武田吉左衛門武田戸兵衛
 「本郷村」 綱島九助・八幡勘之丞・宮林半左衛門・手塚惣兵衛・甲田勘右衛門
 「五加村」 神津文之丞・甲田清右衛門・同久左衛門・
同勘右衛門・塩沢善人・水野与五左衛門
 「柳沢村」 坂田十兵衛・桜井源六・宮原五兵衛・坂田伊右衛門・宮原彦兵衛
 「石神村」 竜野市兵衛・金井源右衛門・関源七・中条平右衛門・竜野市兵衛・上原勘之丞・
同曽兵衛
               丸山勘左衛門・竜野清右衛門  「鈴子村」 小野儀左衛門・塩入平左衛門・清水又兵衛 
「平井寺村」 林文左衛門・久保田七右衛門・林勘右衛門・
林字左衛門
 「奈良尾村」 林儀兵衛・綱島六右衛門・山寺源五右衛門・清水藤左衛門・林善兵衛・松崎藤兵衛・西沢九兵衛・室加新左衛門
                 ・
黒沢市左衛門・松崎喜右衛門
 「町屋村」 山寺源五衛門・峰村甚右衛門・同喜平太・山極弥左衛門・同五左衛門・室加小平治・峰村喜平太
 「下之郷村」 横関源五左衛門・同源五兵衛・村山藤四郎・同善五郎  以上のほかに、各村ごとに寄進している。


 宝永四年八月御普請初、大工棟梁諏訪郡下原村牛山平左衛門、 宝永五年八月一日地祭、 

   佐久郡長土呂村今津山長福寺慶誉法印同年八月十九日御棟上げ。
 同年十月二十一日屋根茸方成就屋根ふき、大工棟梁松本亀井忠兵衛同弟由兵衛・  宝永六年九月二十五日、御入堂霊泉寺泉貞和尚、
 宗竜寺閉居之老和尚、同寺現在仙竜和尚、伴僧二十三人也。 正徳元年九月十一日御台門階成就石切伊那郡木之町飯島与五衛門となっている。
〇 江戸時代塩田平ではこの文珠堂を「おもんじょさま」と呼んで春秋のこう四五人の仲間で市峠(沢山池の西の峠)を超えて
  
日帰りに参拝するものが多かった。
  そして「おもんじょさま」のお祭りに雨が降らなければ、泉田の大日さまのお祭りに雨がふるといわれたとものである。 
〇 しおだ町報 昭和39年1月1日 第92号

記10                   塩田平八十八仏の霊場      紙上講座  東川多寿男
  塩田平四国遍路八十八仏の霊場について、
史料をみると表紙に「阿波・土佐・伊予・讃岐・四国遍路八十八番」とあり、
 裏に「四国遍路八十八仏は塩田二十二ヵ村に御座候。
 諸仏番次並詠歌」 「元禄六癸酉ハ月さだめ、享和三年癸亥五月十一日写之」とかいてあり、また「道中心得書」には当時の遍路姿の笠、
 白衣にかく文字のかき方、
 遍路の規律、道中食料宿泊の心得等を細部にわたってかいてある。
  四国遍路塩田八十八仏
 下之郷村  一番  釈迦 阿波   霊山寺  十四番  弥勒 阿波   常楽寺  二十一番  虚空蔵 阿波  大竜寺
    三十一番  文珠 土佐   五台山  六十一番  地蔵 伊予  香園寺  六十五番  十一面観音 伊予 三角寺
   八十三番  正観音 讃岐 一之宮  八十八番  薬師 讃岐  大窪寺    
   誓をば只幾度も結びおけ 大非の恵み下之郷まで
 平井寺村  二番  阿弥陀 阿波  極楽寺  七十六番  薬師 讃岐  金蔵寺
  三つ山千手の誓あやまたす 枯木用瓦も 平井寺の里
 八木沢村  三  釈迦 阿波 金泉寺  三十  阿弥陀 土佐 一之宮  四十五  不動 伊予  岩屋寺 
   四十六  薬師 伊予 浄瑠璃寺  七十一  千手観音 讃岐 弥谷寺    
  煙たつ八木沢村の仁徳に 法の御声を聞くも尊し
 舞田村  四  大日 阿波 大日堂  五十九  薬師 土佐 山院山  四十九  釈迦 伊予 浄土寺
   八十五  不動 讃岐 八栗寺  六十九  正観音 讃岐 観音寺    
  四つ神はなかりけりな舞田 村法り樹院の花桜路
 中野村  五  地蔵 阿波 地蔵寺  五十九
 薬師 伊予 国分寺
 八十四  千手観音 讃岐 屋島寺
  世は柳挨拶中野 花□も 手引に廻る遍路道中
 西山村  六  薬師 阿波 安楽寺  三十六  不動 土佐 青竜寺  四十四  十一面観音 伊予 菅生山
   七十八  阿弥陀 讃岐 道場寺        
  中禅寺阿字の本有むね開き 西前山よろ紫雲になびく
 十人村  七  阿弥陀 阿波 十楽寺  二十八  大日 土佐 大日寺  四十  薬師 伊予 観音寺
   七十五  地蔵 讃岐 普通寺        
  朋友は 十人村詣来て □蓮と祈るたのも
 東前山村  八  千手観音 阿波 熊谷寺  二十七  十一面観音 土佐 神峯寺  五十六
 地蔵 讃岐 泰山寺
   七十七  薬師 讃岐 道隆寺         
  八葉の蓮の台と誓ひてし 慈悲は常盤の前山の里
 別所村  九  釈迦 阿波 法輪寺  十五  不動 阿波 国分寺  二十四  虚空蔵 土佐 東寺
   二十六  薬師 土佐 西寺  四十一  十一面観音 伊予 稲荷山  五十三  阿弥陀 伊予 円明寺
   七十  馬頭観音 讃岐 本山寺  八十  千手観音 讃岐 国分寺    
  罪過も別所に消えて代々の人安楽国土能願ひ叶ふて
 手塚村  十  地蔵 阿波 切幡寺  三十五  薬師 土佐 清竜寺  五十二  十一面観音 伊予 太山寺
  五十七  阿弥陀 伊予 八幡宮  六十  大日 伊予 横峯寺  八十一  千手観音 讃岐 白峯寺
  手塚らに作に無料の罪辺にも ひとへにたのめ弥陀の來迎
 五加村  十一  薬師 阿波 藤井寺  二十五  地蔵 土佐 津寺  四十二  大日 伊予 仏水寺
   入六十  十一面観音 讃岐 志度寺        
  三途も消えつつ五加真光寺 参る人には利生有べし
 柳沢村  十一  虚空蔵 阿波 焼山寺  五十一  薬師 伊予 石平寺    
  柳沢出て鳶も 法々華経 法の庭なる 青竜ノ梅
 新町村  十三  十一面観音 阿治 一ノ宮  三十三  薬師 土佐 高副寺  六十三  毘沙門 伊予 吉祥寺
   六十八  阿弥陀 讃岐 琴 引        
  古きをも慈悲新町と誓ひおき 余に人には利生まちまち
 鈴子村  十六  千手観音 阿波 観音寺  六十四  阿弥陀 伊予 前神寺  七十四  薬師 讃岐 甲山寺
  千剣破鈴子に今は廻り来て 心は澄て 来光寺森
 石神村 十八  薬師 阿波 思山寺  三十三  十一面観音 土佐 源峯寺  五十四  不動 伊予 延命寺
   七十二  大日 讃岐 万楽朋維寺        
  朝岡の麗にかかる石神の 誓は深き阿弥陀人本顔
 野倉村  十七  薬師 阿波 井上寺  四十三  千手観音 伊予 明石寺  六十六  十一面観音 讃岐 雲遇寺
  山婦か起野倉の里に尋ねきて 衆生さいどの 瑞光寺かな
 保野村  十九  地蔵 阿波 立江寺  三十四  薬師 土佐 種間寺  四十八  十一面観音 伊予 西林寺
   八十七  正観音 讃岐 長尾寺        
  秋の野に薄保野村□ □誓ひたのもし
 小島村  二十  地蔵 阿波 鶴林寺  三十七  阿弥陀 土佐 五社  六十二  十一面観音 伊予 一之宮
   七十三  釈迦 讃岐 出釈寺        
  此船と小嶋に寄せて釣人も 竿を□む
 山田村  二十二  薬師 阿波 平等寺  四十七  阿弥陀 伊予 八坂寺  八十二  地蔵 讃岐 根楽寺
   二十九  千手観音 土佐 国分寺        
  山田守に賎き民も一筋に たのみをかけて願ひ満る
 本郷  二十三  薬師 阿波 薬王寺  三十八  正観音 土佐 □□山  五十五  大日 伊予 三島宮
   七十九  十一面観音 讃岐 崇徳院        
  ひたぶるに願ひをかけし本郷 に廻る来身はたのもしきかな
 奈良尾村  五十八  千手観音 伊予 佐礼山  六十七  薬師 讃岐 松尾山    
  夢にさへ富士を南にならを村 猶後の世もたのもしきかな
 町屋村  五十  薬師 伊予 盤多寺        
  唯たのめ大非は西に光さす 安養田分を 町屋ありけん
    (元禄六癸酉八月 享和三年癸亥五月十一日写之)            しおだ町報 昭和38年12月5日 第91号 (東川多寿男)
 記11  平井寺の小字名
 古安曽  古く安曽郷のあったところ  平井寺  寺名からの土地名  一斗坂  一等坂で、傾斜度が高い坂のこと
芝原   芝草にある耕作地 袖原   耕作地帯のはじ(袖)の所  山崎  丘陵や山地が突出したその先
 上平  上方にある耕作地 小屋久保  出作り小屋のある凹地  鬢櫛  びんぐし状で小規模の凹凸の地形か
 小森川  古く神社のあった近くを流れる川からの地名 中谷   ある地域の中ほど  若宮  一族の先祖を祭祀した所、氏神と同義
 若宮下  若宮社の下手方  駒形下  駒形神社の下手方  駒形  馬を供養する神社のこと(古昔の牧場関係の地名)
 小谷岳  小屋館で牧場事務所の所在地  飼馬口  牧場で牛馬のえさくれ場にあたる所  峠下  読如字
 小胡桃  くるみは浸食地のことをいい、小規模の浸食地 大胡桃   前項参照  耳切  端の方が断崖となっているところ
 入峠  奥の方にある峠 横尾   主要道(立道)に対して横方向にあるところ  馬除  牧場の周囲にはりめぐらしてある土堤
中原   中央部に位置する耕作地 栗尾   崩落地形のところ  常有  トコナメで湿地で粘土地質のところ
 大久保  大規模な沢  森下  神社の下手方  小平  小さな平地、古く平地であった所か
 神明前  神明宮社の前方部 大平   広い面積をもつ耕作地  小丸山下  小さな円形の盛土の下方
子産田   小海田で湿田地帯  垣結  垣は崖でその終わりの方  河原田  河川敷にある水田
 〆切  通行が困難となるせまいところ  神田  神社の所有地で免祖地  東神田  前項参照
 下川原  下方にある河川敷にある耕作地  神外  神社境内のうち外区分のこと  湯原  湧水のある耕作地
 初ノ入  所ノ入で谷の奥の方のこと        
          うえだ・小県地方の「地字略考」 (五十嵐幹雄、喜寿記念出版)より平井寺分
記12

       生島足島神社の梵鐘
    建治年間に塩田陸奥守(北条国時)生島足島神社に寄進し、その後、武田晴信(信玄)が戦勝祈願をこめて改鋳し、
   天明年間再び改鋳された   (梵鐘の説明看板より)


      しおだ町報     紙上口座       昭和36年5月5日  第60号
  下之郷公民館の入口のかや葺の鐘楼に大きな梵鐘がある。  この梵鐘はもと、生島足島神社の境内、諏訪大明神に奉納されたもので、
 今から約百八十年前、天明三年三月に改鋳されている。 

 この鐘の鋳直を発願した人は、宮入喜左衛門、横関羽右衛門、曲尾吉作という三人の人で
 鐘供養の導師をつとめた人が下之郷の神宮寺の法印という和尚さんである。  大祝は、工藤数馬、神主は工藤市正で、
 世話人が宮入次郎衛門、
横関治郎兵衛 という人で、その時の下之郷の庄屋は横関平兵衛であった。  
 改鋳に要した工賃の一部は特志の寄進によっている。

 その中で十一両二分という大金を、東筑摩郡の仁熊村、宮沢志津馬吉伯という人が寄進しているが、

 この宮沢氏は塩田北条氏の流れで、代々その地に住した豪農であった。
 自分の祖先のゆかりの地塩田の生島足島神社に特別な寄進したばかりではなく、保野の塩野神社へも石燈籠を二基寄進している。
 その寄進の世話をした人が、馬越村(浦野)の生島小左衛門という人である。

 右の宮沢氏の外に、この梵鐘に特別寄進した人々に、つぎのような人がある。 
 手塚村山極八郎右衛門、倉沢友右衛門、鈴子村小野儀左衛門、清水惣左衛門、 別所村倉沢五郎左衛門、中沢源八、室賀村大井三郎治、
 馬越村渡辺惣兵衛、五加村甲田清右衛門、舞田村中村治左衛門、福沢勇治、中野村小出条左衛門、
 小島村小泉市左衛門、石神村小林覚左衛門、本郷村八幡三右衛門、丸子町工藤治兵衛、
 地元の下之郷村では横関平兵衛、同伝左衛門、曲尾吉作、村山金之助で 

 群外では佐久郡野沢町、並木甚左衛門、同四賀村神津平左衛門、で県外では武州大越村越塚彦四郎等がある。
 この鐘を響きを司るものは神徳であって、この鐘のひびくところ、民が生き、食足りて、すべての生業が盛んになる。 
 この鳴鐘ができて時刻を報ずると、
 いる者も業に励みを知らされ、田畑を耕す人も、家について機械に従事する人も皆同じ、

 その響きは無窮であって国祚長久、四海寧安、民等諸人その余光を□り、 神の霊惠をはかることができない。といわれている

東川多寿男氏

 記13        貢米未済の庄々     庄園
 常田庄  八条院領、のちの後醍醐天皇領  海野庄  殿下領
 小泉庄  一条大納言家領  塩田庄  最勝光院領
 浦野庄  日吉社領  依田庄  前斎院御領
 見張牧・塩原牧  左馬寮寮    
記14

         副食共同炊事に喜ぶ主婦
  平井寺区は、一昨年畑作振興モデル地区に指定されて以来機械化農業、農林道の新設に着々と進められている.

 これにあわせて町のトップをきって共同炊事が実施された。   

 五月末、部落中央の公民館附近に六坪の衛生で理想的な炊事場の新築が総工費、二十四万円で六月十日に完成され
 この十五日から二週間の予定で副食だけの共同炊事が始められた。  まず、専用の炊事婦二人をやとい町の普及所、池田普及員の指導のもとに、
 各戸から野菜、味噌、大豆、卵など家庭でまにあう物は持ち寄り、1人一食、十五円位でまかなうよう、献立がたてられた。
 おいしくて栄養に富んだ給食を、昼は百人分、夜は二百人分作られ各戸に配られている。

 とにかく農繁期は忙しさにまぎれて、栄養がかたよりがちになり、
 また特に平井寺部落は山間部で、手近かに食品が買えないことなどから、主婦の食事に費やす労力非常に大きかったが、

 この共同炊事により完全に解消され
 主婦などが大喜びであった。 尚、共同炊事が実施されるまで、男性側から反対の声ももあり、 また経営の点など問題に難航したが、
 三回にもわれるアンケートなどによる主婦の熱意がここに実り共同炊事が実施されたことは誠に喜ばしい
      しおだ町報 昭和36年7月5日 第62号

記15

         平井寺温泉ボーリング中間報告
 過日県企業局々長の相沢氏が、塩田町観光開発事業発展のために、塩田町のすみずみまで独りで歩かれ視察され、

  塩田の観光と局長の見た塩田平について
 町役場に於いて講演をして下さいました。  鎌倉文化の導入によって昔より栄えてきたこの地を、

  現在のからより一歩ぬけ出した美しい町づくりをするにはどうしたら
 よいか、資源のあると見た場合は速やかにこれに対して手を打ちたいということで、その第一の仕事が平井寺温泉のボーリングであります。
  掘さくは、日本相互建設より派遣されて御苦労して下さっております矢島技師を中心として、

 地元より金沢、塩入の両氏が応援して努力されております。
 幸にして矢島技師はこの道のベテランで、聞くところによると鹿教湯温泉並びに葛温泉(大町)等を掘さくされた経験者であるとのことで

  心強い限りであります。
 掘るにあたっては一喜一憂で、精神的の苦しみが多いとのことでした。  静かな谷間にボーリングの響きが初冬の空気をつたわって

 流れて行きます。
  技師は語る、
十メートル位掘った処で岩盤に当たってしまいましたよ。  

 それから十九メートルで急に温度の高い二十三度温泉がでて驚きました。
 処が今度二十四米では全然温度のない水が自噴で毎分四十リッター、出て来ました これが二日続きました。 

 又四十メートルで十八度になり、
 五十一メートルで二十度、幸の事に掘るに従って温度が上がることです。 だんだん掘るにつれて岩盤がかたく現在は六十メートルまで行き、
 普通のきりでは掘れなくなりダイヤのきりを使用すべく手配中の事でした。 ボーリング中間報告としてお知らせして今後に期待いたしましょう

 しおだ町報  昭和41年12月5日 第126号

 昭和42年3月7日 深度301.39メートル、温度地表26度C、地下30.5度C、湧出量分50リットル。 塩田歴史年表続編P38

記16

                    上田に私鉄が発達した背景
 上田に多くの私鉄を生んだのは「蚕都」としての繫栄だ。旧地図を見ると中心市街地周辺やその南西に広がる塩田平、山麗、千曲川沿岸、
 山麗の各地に桑畑があった。 江戸中期から養蚕業や蚕種業が発展、大正から昭和初期の土地利用は桑畑60%で水田より多く、農家の70%は
 養蚕業に関わっていた。 繭や生糸の取引は現金で行われ、金融業も発展した。

 明治10年(1887)には第十九国立銀行、上田銀行、塩尻銀行
 など私立銀行8行をはじめ銀行類似会社が90社近くも存在していた。  

 上田地方に鉄道が敷設されたのは明治21年の官設直江津線(後の信越本線で  、

 同26年に碓氷峠に鉄道が通り東京や横浜と結ばれると原料繭や生糸の輸送に利用されるようになった。
  やがて信越本線への接続を図り、私鉄各線が誕生することになる。 ちなみに中央本線岡谷駅が開通する明治38年までは、岡谷や伊那地方の
 生糸も和田峠を超えて田中・上田経由で横浜へ鉄道輸送された。 この方面からは田中・上田駅よりも信越本線に近い大屋駅の設置請願され、
 同29年に実現している。 上田は県内外の繭や生糸の集散地として栄、「信州の横浜」ともいわれた。

  岡谷生糸の輸送ルートであった丸子町に同22年、製糸業の依田社が創業し急発展した。

 原料繭や生糸の輸送を目的とした丸子鉄道((株)を設立、
  大正7年に丸子線(丸子電気鉄道)(丸子町~大屋)を敷設し、その後大屋から上田東へと延伸した。上田市街地方面でも蚕都の繁栄を背景に
 鉄道建設への機運が高まり、製糸業者らが鉄道院の五島慶太の協力を得て、大正8年に上田温泉電軌(株)を設立、

 10年に青木線(三好町~青木) 、川西線(上田原~別所温泉)を開通した。 13年には千曲川に架橋して青木線を延長 

(三好町~上田し、上田駅と結んだ。
 さらに15年に依田窪線(下之郷~西丸子)、昭和3年北東線(上田~真田・傍陽)と続き、鉄道網が上田盆地に張り巡らされていった。
 この私鉄ルートは上田盆地の各谷筋を走り、上田駅や上田市街に直結、通勤や通学、買い物への利便性が高かった。 上田都市部にとって
 千曲川対岸にある塩田・川西は上田藩時代からの穀藏地帯として重要な地で、この地域と鉄道で結ばれたことは街の発展に大きな意味を持った。
  また、昭和初期には鉄道による観光・湯治がブームとなり、丸子電鉄丸子線では霊泉寺温泉や鹿教湯温泉、上田温泉電軌の青木線は
 沓掛温泉や田沢温泉、北東線(後の真田傍陽線)では菅平高原のスキー場がそれぞれ観光の目的地となった。鉄道発着点となった上田市街地
 の商店街は大いににぎわった。
  青木線の廃止
  鉄道は地域の足として存続したが、その後、一部は再編されて行った。 
上田温泉電軌の青木線は
松本街道 (後の国道143号)の道路敷の片側を県から借用し
て路面電車として運行していた。 借用期限の昭和13年、青木線の上田原ー青木間は廃線となり、
バス運行に代わった。 川西線は別所線と改称、上田ー別所を運行
  することになった。 同18年には丸子鉄道と上田温泉電軌は合併、上田丸子電鉄(現上田電鉄)
  となった。
  上田温泉電軌が敷いた西丸子線(旧依田窪線)は丸子から上田への乗り入れのためのルートであったが、

    丸子
電鉄による丸子線上田東駅設置のあおりを受け、乗客は少なかった。 昭和36年に台風で被害後、復旧を断念し廃線となった。

    西丸子線 平成四年現在 「馬場の駅舎」「下之郷駅」は原型を留めています。
  上田電鉄別所線は(旧上田交通別所線)だけは利用者や地域住民、上田市の協力により今も存続している。

         地図でたどる長野県100年 (長野県地理学会)(北沢文明氏)

2019年10月13日午前8時頃  台風19号により鉄橋を支えていた堤防が濁流に削られ、

別所線千曲川架橋の一部(城下側)が落ちる。
2021年3月28日 復旧工事を終え、全線の運転を再開する。

地図でたどる長野県100年 (長野県地理学会)(北沢文明氏)

記17

   千曲川架橋
 市外地と塩田平を結ぶ千曲川架橋は「新上田橋」(昭和45年)、  「
古舟橋」(昭和50年)、 「小牧橋」(昭和60年)

 「常田新橋」(平成11年)、「上田大橋」(平成12年)、 の5橋が順次整備された。

記18

  平井寺の夫婦道祖神

 かつて、鎌倉街道と内村(現丸子町)への三叉路に立っていましたが、尾根川の洪水で流出してしまったと言われてきました。
 その後新しく建てられた道祖神(夫婦道祖神隣)には、天明四年(1784年)の年号がはいっていることからみて

 夫婦道祖神は二百年以前のものと思われます。
 左右に銚子と盃が彫られ、朱の着色の跡もかすかに残る珍しい像で、 この地方では見られないりっぱな夫婦道祖神です。
 銚子と盃が離れているところから、祝言をあげた後の夫婦と思われます。

平井寺トンネル開通後は、上田の南玄関口を守る「塞ノ神」として
また縁結びの神として郷土をまもるため再び世に現れてくださったのでしょう
  龍野常重氏