歴史
平井寺・・・を中心に個人的に覚えて置きたい事や、気になる事項を並べるので、時代が飛びますが書き込見ます。 |
平井寺の各場所の小字名 43ヵ所 記11 |
前4000年~前2000年 原始・縄文式文化時代 平井寺・栗尾 |
(前漢) 征和年間(紀元前91年) 司馬遷 史記を表す。 (記1) (記)は一番下に表します。 |
240年~248年 魏正始年間 卑弥呼死し、径百余歩のちょうを作る。 国中扮乱し、卑弥呼の宗女とよを女王に立って、安定する |
403年仁徳天皇 覆中4 この頃古墳がつくられる。(この時代を中心に前後約300年、古墳文化時代) 東塩田における古墳のみ記載。 (日之雨塚、神外古墳、長野県古墳番号1402号)(イ-P6) |
478年 雄略天皇 ・豊受大神を(酒呑童子の舞台、大江山・京都府福知山市大江町より) 伊勢に移しまつる(外宮)。日之雨塚の御祭神は豊受大神。(イ-P6) |
600年 推古天皇 8年 第一回遣隋使派遣 |
604年 推古天皇 12年 4月3日 聖徳太子、憲法17条をつくる。 |
607年 推古天皇 15年 7月3日 小野妹子らを隋に遣わす。この年、法隆寺完成と伝える。(アー3P) 全国に寺四十六・僧尼一千三百八十五人(イ-7P) |
645年 孝徳天皇 大化元年、 塩田に条理。(イ-P7) |
670年 天智天皇 9年 4月3日 法隆寺、全焼する。 |
672年 弘文天皇 白鳳元年 下之郷信州夢殿の本尊はこの頃の作と考証されている。(イ-P7) |
708年 和銅元年 1月11日改元 5月11日初めて銀銭和同開珎を用い、ついで銅銭も用いる。 この頃、法隆寺再建。 |
712年 元明天皇 和銅5年 1月28日 大安麻呂、「古事記」を撰上する。 古事記の神話・伝説に科野が二か所登場する。 (ともに日本書記とは違いがある。) |
712年 元明天皇 和銅6年 諸国に命じて風土記を作らせる。 |
720年 元正天皇 養老20年 5月21日 舎人親王ら、「日本書記」を選上する。 |
729年 天平元年 8月5日改元 2月12日 左大臣長屋王、謀反を問われ自殺を命じられる。 |
733年 天平5年 山上憶良、死去する。 |
749年孝謙天皇 天平19年 小県の郡名が起こる。 9月29日東大寺大仏の鋳造を始める。 |
741年 天平13年 奈良の正倉院の御物を整理中、白布の芥子袋(からしの種を入れた袋)に、 「信濃国少県郡芥子壷 天平13年10月記。 |
752年 天平勝宝4年 4月9日 東大寺大仏開眼供養が行われる。 |
755年 天平勝宝7年2月 防人が交替し、北九州の守りに出発する時 国造小県他田舎人大島、途上情を抒して、 唐衣裾にとりつき泣く子等を |
防人と信濃の人々 |
防人として信濃のから九州筑紫(福岡県)に向かう防人の一群、
それらの人々が行旅の途中詠んだ歌の一つ
斎(いわ)う命は母父がため」 主帳埴科郡神人部子忍男
棚引く山を越(こ)よて来ぬかも」 小長谷部笠麿
道にて病を得て来られず、進(たてまつ)れる歌の12首。
兵部少輔大伴家持が集録したもの。 |
東風 |
万葉集に載っている信濃国に関する歌。 人みなの言(こと)は絶ゆとも埴科の 石井の手児(てこ)が言な絶えそね (巻14) 信濃路は今の墾道刈株(はりみちかりばね)に 足踏ましむな履はけ我が夫(せ) (巻14) 信濃なる筑摩の川の細石も 君し踏みてば玉と拾はむ (巻14) 中麻奈に浮き居る船の漕ぎてなば 逢うこと難し今日にしあらずば (巻14) 彼の児ろと寝ずやなりなむはた薄(すすき) 浦野の山に月(つく)片寄るも (巻14) 上田小県誌第1巻P94 |
759年 天平宝字3年 8月3日 鑑真、唐招提寺を創建する。 このころ大伴家持、「万葉集」を編む。 |
785年 延暦4年7月 最澄、比叡山に草庵を構える。 |
788年 延暦7年 この年 最澄、比叡山寺(延暦寺)を創建する。 |
795年 桓武天皇 延暦14年 小県人久米舎望足、人を射て讃岐国に流さる。(上田小県歴史年表) (イ-P10) (長野県史、通史編別巻では、小県郡の久米舎人(くめのとねり)望足、 信濃介正六位上石川朝臣清主を射て当たらず、 この日讃岐国に流される。とある。 |
804年 延暦23年 7月 肥前田浦から遣唐使船が出発、最澄、空海が同行する。 |
805年 延暦24年 8月9日、帰国した最澄、唐仏を献上、天台宗を始める。 |
806年 平城天皇 大同元年、5月18日改元。 この頃、万葉集が出来る。 8月22日 空海、帰国し、真言宗を始める。 |
812年 弘仁三年 空海上人、独鈷山を護摩修行の霊場として開くと云う(イ-P11) |
815年 弘仁6年 この年 最澄、東国におもむき、上野・下野両国に各塔を建て写経した
法華経を8000巻ずつ収める。 信濃側に広拯院(阿智村園原)を建てる。【ハ-P11) |
859年 貞観元年 1月、神祇官の無位生島神足島神に従四位上を授けられ、
2月、また正四位下を授けられる。 各地に荘園が生まれるようになると |
903年 醍醐天皇 延喜5年 古今集が出来る。 |
1180年 治承四年 9月7日 木曾義仲依田城による。(イーP13) |
1181年 養和元年 木曽義仲の臣に塩田八郎高光の名前が見えるので、此の地方から義仲に従った者が
多かった事が想像される他に望月太郎、今井四郎兼平、樋口次郎兼光、 |
1184年 寿永3年1月8日 義仲 征夷大将軍となるが、源範頼・源義経の軍に攻められ、
正月20日近江粟津にて敗死する。 |
1185年 文治元年 長門国壇ノ浦の戦いで平家が破れ、滅亡する。 |
1186年 文治二年 吾妻鑑に貢米未済の庄々として郡内の庄園を記す。 記13 (イ-P14) |
1241年 仲恭天皇 仁治2年 向源寺上田原に創立さるという。 |
1275年~1278年 建治年間 生島足島神社境内、 諏訪大明神に大きな梵鐘奉納 記12 エ |
1331年 元弘元年 (8月9日改元) この頃、吉田兼好、「徒然草」を著す。 |
1333年 (北朝、正慶二年)(南朝、元弘三年) 5月22日) 鎌倉落ちる。 塩田国時その子俊時敗死する。(イーP19) |
1335年 後醍醐天皇 建武2年 この頃、安楽寺八角三重塔や前山寺三重塔が建立されたと考証。 (アーP12) |
1336年 後村上天皇 延元元年 楠木正成、湊川に戦死。 12月12日 後醍醐天皇、吉野に移る。 (南北朝の対立が始まる。) |
1392年 明徳3年、元中9年。 10月25日 南北朝講和が成立する。 南北朝合一する。 |
1457年 長禄元年 9月28日改元 4月 太田資長(道灌)武蔵江戸城を築く。 (七重八重花は咲けどもやまぶきの みの一つだに無きぞ悲しき) |
1466年 後花園天皇 寛正7年 権大僧都真野法印、小県郡富士山に「大姥石仏」造立。 (アーP13)(イーP21) |
1486年 文明18年 4月5日 平繁則、東内村法住寺の虚空蔵を建立する(イーP22) 7月26日 相模守護上杉定正、太田道灌を同国糟屋で殺す。 |
1541年 天文10年 5月14日 高野山蓮華定院過去帳に、「位一房ー塩田城」とある。(イーP23) |
1543年 後奈良天皇 天文12年 種子島に鉄砲伝来。 |
1571年 正親町天皇 元亀2年 熊野権現(古川神社)本殿修理せし棟札有。 7月21日 高野山蓮華定院過去帳に「妙範ー塩田平井寺中原]とある.
(記2)・「エ」(イ-P27) |
1582年 正親天皇 天正10年6月2日 本能寺の変。 |
1583年 天正11年8月24日 真田正幸、上田城起工。 房山、常田の獅子はこの時の地鎮祭に始まると 伝えられる。 |
1584年 天正12年 真田昌行の上田城竣工。(イ-P30) |
1592年 文禄元年 「東松本の帳」という古い土地改帳ができる。(町屋山寺公家蔵)(イーP31) |
1600年 慶長5年 上田藩差出帳、平井寺村記載あり
信之は東軍に属する。(イーP31) |
1602年 7月 中仙道開通、和田宿、長久保宿成立。 真田の家臣池田長門の守東松本村に大円寺を開基(イ-P32) |
1622年 後水尾天皇 元和8年 鈴子の来光寺池築造伝う。
上田へは小諸より仙石忠正一万石加増で入部。 |
1625年 寛永2年 東松本村分かれて町屋、奈良尾に、西松本村分かれて鈴子、石神、柳沢になる。 |
1631年 明正天皇 寛永8年 千曲川洪水に地形変わり尼ヶ淵の水枯れる。 |
1635年 寛永12年 参勤交代の制定まる。 |
1636年 寛永13年 寛永通宝鋳る。新銭四貫文で一両替、即ち一歩一貫文。 |
1641年 寛永18年 上田城修理完成する。これが現上田城。(イ-P39) |
1650年 慶安3年 小県郡山田池 二つ並んでいた池を、一つにして大きな池にする。 山田池にしたらしい。 |
1657年 後西天皇 明暦3年 徳川光圀の大日本史の編集始まる。(イーP40) |
1675年 霊元天皇 延宝3年 塩田地区平井寺の林徳右衛門(庄屋)飢饉による民の窮状を見るに忍びず三斗八升一俵を強訴して死罪に処せられる |
記5
1680年 延宝8年 この年塩田町古安曽村春原政次寺子屋を始める。 この頃、りんきん(りんご)を松本に買いに行っている。(問屋日記) |
1681年 天和元年 9月29日 沼田の真田家改易となる。 城主信澄54才で切腹。 |
1688年 元禄元年 7月17日、千曲川の洪水。 8月15月 松尾芭蕉、「更科紀行」の旅をし、 この日姨捨山に着く。 |
1689年 元禄2年 3月24日 芭蕉の「奥の細道」の旅に、諏訪出身の河合曽良が随行する。 「奥の細道随行日記」を書く。 |
1690年 元禄3年 10月25日 上田鍛冶町鍛冶職人、細工日や材料の仕入れ、鍬の規格・ 値段などを申し合わせる。 |
1698年 元禄11年 2月9日 紀伊國屋文左衛門、材木運送請負で巨利を得る。 |
1691年 元禄4年 4月2日 大改築、古池を深さ一丈六尺に増築、 土手一丈上げる。
完成獅子舞(下之郷28名) |
1692年 元禄5年 8月 徳川光圀、楠子の碑を湊川に建てる。(ウ-P49) |
1693年 元禄六癸酉(みずのとのとり)八月さだめ 「諸仏番次並詠歌」西国三十三番
「塩田平八十八仏の霊場」 |
1702年 元禄15年 5月18日、幕府の許可を得て上田城二の丸等の石垣修理する。(仙石資料) 12月14日 大石義雄ら赤穂浪士四十七人、吉良義央を討つ。 |
1703年 元禄十六年 2月4日 幕府、赤穂浪士を切腹させ、吉良義央を改易する。 |
1705年 宝永2年 善光寺再建の木材千曲川流し許される。 この流し材の余りにて上田大輪寺本堂建つ(大輪寺文書) |
1706年 宝永3年 上田領村々から差出帳を出させる。 (イ-P52) |
1707年 宝永4年 鹿教湯 文殊堂の寄進 文珠菩薩を御輿に安置し出開帳 記8 エ |
1709年 宝永6年 上田の向源寺上田原より現地に移るという。 |
1713年 正徳3年 3月 平井寺の熊野宮建てられる。(古川神社) (イ-P51)
1736年 桜町天皇 元文元年 川に流せし正月のしめ飾りを焼く事に決まる。どんど焼きという。
1777年 安永6年 この頃と思われる、地蔵念仏禁止令書。(小県誌写真集)
1778年9月 後桃園天皇 安永7年 平井寺峠平井寺側に馬頭観音が建立。
甲田三男氏の石造文化財、本の表紙より
記6
1782年 天明2年 生島足島神社の大鐘鋳直しする。(鐘銘)(イーP60)記12 |
1805年 享和三年癸亥五月十一日 表に阿波・土佐・伊予。讃岐・四国遍路八十八番とあり、
裏に「四国遍路八十八仏は塩田二十二ヵ村に御座候。諸仏番次並詠歌」写之 |
1824年 文政7年 この年塩田地区五加に伊勢講はじまる。 |
1833年 天保4年 3月18日 塩田組中生島足島神社に豊年祈禱を行う。 この年天候不順、大凶作。 天保9年まで6年間にわたる。 |
1834年 天保5年 国友籐兵衛はじめて望遠鏡を作る。(上田博物館に現存、当時70両)(イーP68) |
1835年 天保6年 一村につき百坪3千本の甘草を植えさせる。(イーP68) |
1836年 天保7年 大凶作で諸国民さわぐ。わら餅をくい、全国の酒造三分の減、上田藩は全く禁ずる。(小県郡年表250P) 上田藩山田池土手に甘草栽培を行う。 |
1837年 天保8年 塩田組の農家年中行事帳を藩へ差し出す(上田小県誌) |
1841年 天保5年 来光寺池の一の樋(とい)前腹付の修繕。(役夫14,597人) |
1842年 天保13年 貞享暦(1684年)をやめて天保暦を用いる。 |
1846年 弘化3年 塩田組22ヶ村組中家数人別調(北沢文書)
村名 | 家数 | 男数 | 女数 | 計 | 村名 | 家数 | 男数 | 女数 | 計 | |
八木沢 | 60 | 184 | 186 | 370 | 別所 | 111 | 279 | 302 | 581 | |
山田 | 53 | 149 | 145 | 294 | 東前山 | 73 | 178 | 178 | 356 | |
西前山 | 不明 | 302 | 十人 | 21 | 71 | 60 | 131 | |||
新町 | 42 | 97 | 98 | 195 | 小嶋 | 43 | 192 | 186 | 378 | |
鈴子 | 47 | 156 | 136 | 292 | 平井寺 | 56 | 115 | 113 | 228 | |
石神 | 91 | 223 | 223 | 446 | 手塚 | 114 | 331 | 312 | 643 | |
中野 | 46 | 162 | 145 | 307 | 野倉 | 97 | 170 | 167 | 337 | |
奈良尾 | 84 | 363 | 356 | 717 | 町屋 | 57 | 193 | 230 | 423 | |
五加 | 120 | 372 | 364 | 736 | 柳沢 | 54 | 190 | 174 | 364 | |
下之郷 | 不明 | 723 | 本郷 | 83 | 268 | 238 | 506 | |||
保野 | 59 | 259 | 241 | 460 | 舞田 | 46 | 130 | 118 | 253 |
1847年 弘化4年 中組の西光寺本堂が再建される。(イーP71) |
1848年 嘉永元年 藩主上田町に工場を作り、桐生より職人を入れ、絹織物業盛んになる。 赤松小三郎、13才で江戸遊学にのぼる。 佐久間象山藩命により、砲数門造る。(イーP71) |
1858年 安政5年 6月2日 上田産の生糸、群馬県三原の中井屋重兵衛店を通じて横浜から初めて輸出をする。 この年より四ヵ年渋沢栄一藍玉を小県地方に販売に来る。(八木沢資料) |
1861年 文久元年 3月10日 和田宿の大火107戸焼失。 和宮下向のため直ちに復元する。 10月 和宮中山道下向。この地方多人数人足にあてられ上田藩も警備につく。(アーP62) |
1867年 慶応3年 9月3日 赤松小三郎、京都で暗殺される。 9月17日 大屋橋、渡りぞめ式があり、式直後つい落の惨事起きる。 長さ20間、幅2間。(イーP76) 10月14日 大政奉還が行われる。 12月9日 王政復古の大号令が発せられる。 |
1868年 明治天皇 明治元年 明治維新 1月3日 鳥羽伏見の戦い。 7月 下之郷神宮寺壇中を長福寺に預ける。(イーP77) |
1869年 明治二年 六月 廃仏毀釈令がでる。(イ-P78) 下之郷竜泉寺(山伏)廃寺となる。 |
1870年 明治三年 十二月 下之郷神宮寺廃寺となる。(イ-P78) |
1870年 明治3年 12月24日平井寺熊野神社を古川神社と改称する。(同日、庶民の佩刀を禁ずる)(下之郷神宮寺廃寺)(イーP78) 菅平に馬鈴薯(きやびたいも)栽培盛んになりこれから澱粉をとる。 この年石鹸、ランプ、コーモリ、洋犬、洋本とじ、くつ、人力車、郵便が巾をきかす。 米国からはじめてりんごが入る。信州へは明治十二年という。 |
1871年 明治4年 各村々にも戸籍調査が行われる。 初めての戸籍簿ができる |
1872年 明治5年 2月9日 太陽暦を用いる。明治5年12月3日をもって、6年1月1日となし、1日を24時間と定める。(イーP80) |
1873年 明治6年 1月4日 五節句を廃して祝日を定める。 12月 平井寺・鈴子・石神・柳沢・奈良尾・町屋の6か村が1小学区となり「習成学校」として設立される。下之郷は中塩田の「盈進学校」 に通う。 |
1874年 明治7年11月 下之郷は盈進学校と分かれて「戴明学校」を設立する。 |
1875年 明治8年 2月13日 国民に必ず苗字を称させる。 七月 鈴子、石神、柳沢、平井寺を合わせて古安曽という。(イーP84) |
1878年 明治11年12月 富士山村は「習成学校」より分離して「富士山学校」を設立。
1879年 明治12年 戸口調査が行われる。
富士山 | 331戸 | 1、372人 | 古安曽 | 367戸 | 1、547人 | |
下之郷 | 195戸 | 782人 | 五加 | 179戸 | 736人 | |
本郷 | ? | ? | 小島 | 116戸 | 519人 | |
保野 | 139戸 | 605人 | 舞田 | 84戸 | 355人 | |
八木沢 | 111戸 | 414人 | 中野 | 100戸 | 410人 | |
十人 | 39戸 | 175人 | 東前山・西前山 | 189戸 | 796人 | |
新町・手塚 | 240戸 | 1、006人 | 山田 | 73戸 | 319人 | |
野倉 | 97戸 | 378人 | 別所 | 207戸 | 779人 | |
1881年 明治14年6月 平井寺の古川神社本殿屋根ふき替え、鳥居再建される。 |
1882年 明治15年 平井寺を南北に縦貫する道路が作られる。(平井寺の奥の薪や草の入会権をめぐって、鈴子と平井寺が明治12年にもつれ、 折衝の末、明治15年平井寺地籍内この道路を鈴子村が負担して造る事で落着した道路。 以後、大正4年、昭和33年に幅を広げ、舗装をしました。 |
神外古墳はその時、道路を作るために半壊されました。(半壊古墳で石合家の氏神様です
1882年 明治15年 「戴明学校」が「下之郷学校」と改称。 |
1984年 明治17年5月 習成、下之郷両校が合併して「塩田学校」ができる。(ウ-P91) これは古安曽・下之郷・富士山の3が村が1学区になった為。 |
1890年 明治23年 平井寺青年会が発足される。 |
明治23年頃の古川神社の絵地図
1900年 明治三十三年 三月 柳沢銀行創立される。資本金六万円 (イ-P107) |
1901年 明治三十四年 一月 中塩田銀行が創立される。資本金四万円 ・ 七月 古安曽銀行が創立される、資本金十万円・ (イ-P108) |
1902年 明治三十五年 九月 中組に富士山第一信用組合 奈良尾に富士山信用組合が設立される。 (イ-P109) |
1912年 明治45年 六月 古安曽銀行丸子支店ができる。資本金十万円 (ラ-P101 |
1912年 大正天皇 大正元年 平井寺就学奨励部が発足される。
この頃、平井寺 森下に温泉が開かれる。(電気で沸かすお風呂)
湯元 有隣館 藤屋、大正期に創業、昭和初期に廃業。
写真左側の建物は移築され、平成半ば頃までありました。
1913年 大正2年3月 平井寺第1回就学奨励部、学用品授与式が行われる 小学校に入学する児童に、カバン・上履き・進級生には学用品・卒業生には記念品を贈呈。)
1918年 大正7年 8月 不況のため上田小学校女子部の一割150名、男子部30名の児童常欠する。
上田に就学奨励会発足。教科書及び文具料260銭、食費250回分 |
1919年 大正8年 平井寺部落内の道路を大きくなおす。 上田温泉電軌(株)を設立。記16 |
1920年 大正9年10月1日 第1回国勢調査が行われる。(ウ-P131)
富士山・戸数408-人口2,016人
東塩田 戸数644-人口3,023人
中塩田 戸数970-人口4,758人
西塩田 戸数733-人口3,462人
別所 戸数345-人口1,504人
計 3,110戸、人口14,762人
西塩田村村史編さん委員会が出来、主任に小山貞夫委託される。
平井寺に電灯がつけられる。
1921年 大正10年 上田温泉電軌(株) 青木線(三好町~青木) ・川西線(上田原~別所温泉) (ムーP137)記16 |
1922年 大正11年 10月10日 小県郡史刊行される。(小山貞夫編)(ウ-P134) |
1923年大正12年5月 平井寺の古川神社神楽殿改築される。(ウ-P135) |
1924年 大正13年6月 古安曽銀行丸子支店閉鎖 (ラ-P119)
上田駅と結んだ(ムーP137)。記16 |
1926年 大正15年 依田窪線(下之郷~西丸子)開通(ムーP137) 記16 |
1928年昭和3年 北東線(上田^真田・傍陽)開通。(ムーP137)記16 |
1933年 昭和8年12月1日 東塩田小学校開校50周年祝賀式行われる |
1948年 昭和23年 ロンドンオリンピック開催される。 パラリンピック平行開催。
第二次世界大戦後負傷した兵士のリハリビの為。1985年からパラリンピックと呼ばれる。 |
1953年 昭和28年 石神 竜野藤之助米造り日本一、技術多収穫県代表となる。一反部600キロ。 |
1955年 昭和30年 10月1日 国勢調査が行われる
中塩田村 | 1119戸 | 5,702人 |
東塩田村 | 1,118戸 | 5,833人 |
西塩田村 | 815戸 | 4,237人 |
別所村 | 494戸 | 2,219人 |
計 | 3,546 | 17,991人 |
1956年 昭和31年5月1日 東塩田、中塩田、西塩田、別所の4か村が合併し塩田町が発足する。 塩田町立東塩田小学校と校名が改まる。 |
1958年 昭和33年 9月6日 東塩田小学校で校歌生まれる。 作詞峰村国一、作曲神戸時司・ 5月5日 平井寺青年会70周年記念祝賀会開催。 記3 |
1959年 昭和34年11月10日 東塩田小学校創立70周年記念式典が挙行される。 |
1960年 昭和35年2月 平井寺長生会・石神長生クラブ・上小島長命会、各老人クラブが結成される。
(ウ-P1)
長福寺寺宝 二十五面菩薩面も消失。(ウ-P2) |
1961年 昭和36年 6月 平井寺で副食共同炊事はじまる。(ウ-P9)(エ)記14 8月5日 平井寺、奈良尾線バス開通、(ウ-P10) 依田窪線 台風によりトンネルに被害。廃線になる。(ムーP137)記16 |
1962年 昭和37年 3月30日 平井寺の農道栗尾大久保線拡巾改修工事が竣工する。 延長1200m 巾2.5m。(ウ-P13)
( 五反幟及び三反幟)を鉄骨製で二対新設。 |
1963年 昭和38年3月30日 平井寺農道小森川線工事完了する。(ウ-P18) |
1966年 昭和41年 1月27日 平井寺池災害復旧工事が完成する 工事費411万円。(ウ-P33)
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1967年 昭和42年 3月7日 県企業局平井寺において温泉ボーリング中間報告 (ウ-P38)記15 決められる。(ウ-P41) |
1969年 昭和44年 12月林道穴場線(平井寺)工事完了する。延長546m。(ウ-P56) |
1970年 昭和45年 新上田橋完成 |
1975年 昭和50年 古舟橋完成 |
1976年 昭和51年9月6日 東塩田小学校 新校舎建築起工式。 |
1980年 昭和55年5月17日東塩田小学校 新校舎起工式・祝賀式が挙行される。 旧門柱の処分 (2本は現グランドに・2本は資料館北側。 |
1985年 昭和60年 小牧橋完成 |
1986年 昭和61年 平井寺夫婦道祖神 1987年 昭和62年11月30日 ふるさと塩田「村々の歴史」第一集発刊 記20 |
1988年 昭和63年 8月25日 平井寺トンネル有料道路(古安曽平井寺から東内まで) 12月25日 ふるさと塩田 「村々の歴史」第二集発刊 記20 平井寺 記21 |
1989年 平成元年10月29日 東塩田小学校創立100周年記念式典が挙行される。 |
1999年 平成11年常田新橋完成 |
2000年 平成12年 上田大橋完成 |
2017年7月 馬頭観音設置工事完了。
2018年平成30年4月8日 塩田平文化財保護協会様のご配慮で設置いただきました, 馬頭観音説明看板の
除幕式が行われました。 記7 |
2019年 令和元年 10月13日 台風19号により別所線千曲川架橋崩落。 復旧まで城下ー別所間になる。上田駅ー城下駅間はバス運行 |
2020年令和2年 国勢調査5月、100年目 |
2021年令和3年 3月28日 別所線 全線復旧、運転を再開する。 |
12月19日 古川神社 鳥居竣工式。石の鳥居に変わる。
以前の鳥居 新しい鳥居 常夜灯は文久元年立・石階段、太郎山の緑石
参考資料、
・ア、上田小県歴史年表(上小郷土研究会) ・イ、塩田歴史年表1(塩田町教育委員会) ・ウ、塩田歴史年表2(続編) ・エ、しおだ町報縮刷版(塩田町報復刻刊行会) ・オ、塩田平の文化と歴史
・カ、小県郡史(小山貞夫) ・キ、小縣郡史1巻、2巻(小縣時報局)
・ク、上田小県誌1巻・2巻・3巻・4巻・5巻(上田・小県誌刊行会 ・ケ、長野県史(近世史料編全県
・コ、正保四年信濃国絵図)・サ、長野県史、通史編全10巻(長野県史刊行会)
・シ、長野県史蹟名勝天然記念物調査報告全7巻 ・ス、長野県史全23巻(長野全県
・セ、長野県正史3巻と別巻 ・ソ 長野県史 民族編、第1巻(?東信地方ことばと伝承
・タ 明治100年の歴史(明治編・大正、昭和編 )・チ 信濃の歴史と文化の研究(黒坂周平先生) ・ツ 長野県神社庁三十年史 ・テ 上田御領分惣貫高寄帳(慶長五年写) ・ト 東塩田村宝永差出帳
・ナ 塩田の宝永差出帳 ・ニ 信濃の民家 太田博太郎著 ・ヌ 一志茂樹博士喜寿記念論集
・ネ 上田藩農民騒動史 横山十四男 ・ノ 改訂版上田藩農民騒 動史 横山十四男
・ハ 上田市誌(歴史編・4・5・6・7・8・9)(民族編 ・26)(人物編・28)
(別巻・30(図で見る町や村のうつりかわり) ・31(上田市の年表)
・ヒ 『角川日本地名大辞典20長野県』 ・フ 日本歴史地名大系20長野県の地名
・ へ 歴史に学ぶ 津本 陽 講談社文庫・ホ 日本史年表・地図 児玉幸多(編)吉川弘文館
・マ 信濃の歴史と文化の研究
・ (一)・(二) 黒坂周平先生喜寿記念論文集「歴の文字は中の字を取ったカンの文字」
・ミ ふるさとの地名逍遥(桜井松夫編) ・ム 地図でたどる長野県100年 (長野県地理学会)
・メ 明治の塩田郷村誌(塩田郷史研究会) ・モ 史記・列子の思想(講談社)
・ヤ 塩田平(小鹿野 健) ・ユ うえだ・小県地方の「地字略考」 (五十嵐幹雄、喜寿記念出版)
・ヨ 上田地域の石造文化財 (甲田三男) ・ラ 丸子町歴史年表(丸子史料研究会)・
リ 石神の150年史・ル 上本郷のあゆみ ・ レ 歴史研究 海野(海野史研究会)
ロ 信濃史料、巻二~巻二十八、補遺編上下(長野県立歴史館)
ワ ふるさと塩田「村々の歴史」第一集・第二集
記 残しておきたい文字を載せています。
記1 |
太初元年(紀元前108年より史記の執筆を開始・天漢3年友人の李陵を弁護し武帝に激怒され宮刑に処されるが、
征和年間(紀元前92~89年に完成。
司馬氏一族の歴史や、
取材した。
屈原(くつげん、楚の政治家・詩人)
夫差(ふさ)の霊をとぶらかってから、
漢初の英雄の生家や
三ヵ月で都城を陥落さ せた。
山上には許由(きょゆう)の家(つか)があるとのことだった」。
記述した。 |
記2 |
高野山 蓮華定院と塩田 塩田関係の「蓮華定院に残されている過古帳」一部分 「しおだ町報 昭和40年11月5日 第113号」
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記3 |
{平井寺青年会創立70周年」
この時に当たり青年こそ郷土発展原動力であると自覚し、
後に
平井寺青年義会改称して十五才より三十才迄の青年を網羅し、 |
記4 |
『平井寺について 』 紙上講座 東川多寿男氏
附近には、小屋岳、小谷久保、若宮、小産田、垣結というような |
しおだ町報 昭和37年10月5日 第77号
記5 |
〇 平井寺から江戸時代になって林徳左衛門という儀民がでている。 約二百九十年前、(この記事は昭和37年です)
延宝三年という年は大飢饉の年で、
木の芽をつみ草の根を堀、或いは焼酎のかすをあら慷にてこし、
藩強訴した。 |
記6 |
旧平井寺峠口の丸彫立つ像「亍時(ときに)安永七 戊戌竜集(ぼじゅつりょうしゅう)(1778)九月日造立 (安山岩)
さらに尾根川を渡りしばらく行くと
背面に造立年月を刻した馬頭観音立像が安置されています。
いつの日か地震で倒れたのでしょう。
重い荷物を背負ってあえぎながらおうらいする旅人、 |
記7 |
2017年7月移設工事) (2018年4月 平井寺住民の寄付により、すこし東側に移し、説明看板を設置し除幕式を行いました。) |
工事の様子
記8 |
文珠道の寄進 各村々の出開帳 紙上講座
建立資金の浄財をうけている
「手塚村」 山極源右衛門・曲尾市兵衛・池田勘助・中沢次助・ 箱田藤八・塩沢藤七
「十人村」 塩沢平介・斎藤幸七同文右衛門・武田吉左衛門・武田戸兵衛
佐久郡長土呂村今津山長福寺慶誉法印同年八月十九日御棟上げ。 |
記10 |
塩田平八十八仏の霊場 紙上講座 東川多寿男 塩田平四国遍路八十八仏の霊場について、史料をみると表紙に「阿波・土佐・伊予・讃岐・四国遍路八十八番」とあり、 裏に「四国遍路八十八仏は塩田二十二ヵ村に御座候。 諸仏番次並詠歌」 「元禄六癸酉ハ月さだめ、享和三年癸亥五月十一日写之」とかいてあり、また「道中心得書」には当時の遍路姿の笠、 白衣にかく文字のかき方、 遍路の規律、道中食料宿泊の心得等を細部にわたってかいてある。 四国遍路塩田八十八仏
(元禄六癸酉八月 享和三年癸亥五月十一日写之) しおだ町報 昭和38年12月5日 第91号 (東川多寿男) |
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記11 |
平井寺の小字名
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記12 |
生島足島神社の梵鐘
この鐘の鋳直を発願した人は、宮入喜左衛門、横関羽右衛門、曲尾吉作という三人の人で その中で十一両二分という大金を、東筑摩郡の仁熊村、宮沢志津馬吉伯という人が寄進しているが、
この宮沢氏は塩田北条氏の流れで、代々その地に住した豪農であった。
群外では佐久郡野沢町、並木甚左衛門、同四賀村神津平左衛門、で県外では武州大越村越塚彦四郎等がある。 その響きは無窮であって国祚長久、四海寧安、民等諸人その余光を□り、 神の霊惠をはかることができない。といわれている |
東川多寿男氏
記13 |
貢米未済の庄々 庄園
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記14 |
副食共同炊事に喜ぶ主婦 これにあわせて町のトップをきって共同炊事が実施された。
五月末、部落中央の公民館附近に六坪の衛生で理想的な炊事場の新築が総工費、二十四万円で六月十日に完成され、
とにかく農繁期は忙しさにまぎれて、栄養がかたよりがちになり、
この共同炊事により完全に解消され |
記15 |
平井寺温泉ボーリング中間報告
塩田の観光と局長の見た塩田平について
現在のからより一歩ぬけ出した美しい町づくりをするにはどうしたら
地元より金沢、塩入の両氏が応援して努力されております。
心強い限りであります。
流れて行きます。
それから十九メートルで急に温度の高い二十三度温泉がでて驚きました。
又四十メートルで十八度になり、 |
しおだ町報 昭和41年12月5日 第126号
昭和42年3月7日 深度301.39メートル、温度地表26度C、地下30.5度C、湧出量分50リットル。 塩田歴史年表続編P38
記16 |
上田に私鉄が発達した背景
明治10年(1887)には第十九国立銀行、上田銀行、塩尻銀行 上田地方に鉄道が敷設されたのは明治21年の官設直江津線(後の信越本線)で 、
同26年に碓氷峠に鉄道が通り東京や横浜と結ばれると、原料繭や生糸の輸送に利用されるようになった。
原料繭や生糸の輸送を目的とした丸子鉄道((株)を設立、 10年に青木線(三好町~青木) 、川西線(上田原~別所温泉)を開通した。 13年には千曲川に架橋して青木線を延長
(三好町~上田)し、上田駅と結んだ。
西丸子線 平成四年現在 「馬場の駅舎」「下之郷駅」は原型を留めています。
別所線千曲川架橋の一部(城下側)が落ちる。 |
地図でたどる長野県100年 (長野県地理学会)(北沢文明氏)
記17 |
千曲川架橋
「常田新橋」(平成11年)、「上田大橋」(平成12年)、 の5橋が順次整備された。 |
記18 |
平井寺の夫婦道祖神
かつて、鎌倉街道と内村(現丸子町)への三叉路に立っていましたが、尾根川の洪水で流出してしまったと言われてきました。
夫婦道祖神は二百年以前のものと思われます。 |
平井寺トンネル開通後は、上田の南玄関口を守る「塞ノ神」として、
また縁結びの神として郷土をまもるため、再び世に現れてくださったのでしょう
龍野常重氏